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財政再建主義を超え、有効に機能する「ほどよい政府」を

 

 

 

 

はじめに

 小泉政権がすすめた「小さな政府」の政策によって、わが国の公共サービスは縮小と破壊の道を辿った。安倍政権になっても、微調整は加えられることはあっても、別の道が描かれることは期待できない。
 われわれは、縮小と破壊とは別のシナリオを選択することによって、格差と社会危機を脱するだけではなく、知識経済化のための社会インフラを整備し、若者も女性もそしてすべての人が魅力あるワークとライフを手にすることが可能になることを信じ、ここに良い社会に向けた公共サービスを実現するための提言をおこなう。
 われわれがいちばん心を砕いたのは、自立した個による連帯として、国民が社会形成に参加する連帯民主主義こそ、公共の領域を確立するための鍵だという点である。この意味で、この提言が、より良き公共の空間を創っていくための熟議の素材として活用されれば、それ以上の喜びはない。
 
 われわれの研究会は、2004年11月にスタートし、2006年2月には中間報告『公共サービスの再生と刷新で不安社会からの脱却を:安心を保障する有効な政府のために』をまとめた。本最終報告においては、中間報告をふまえつつも、新しい論点と提言を大幅に加えた。最終報告は、総論に当たる部分「『公』の破壊に抗して」と、10の提言から成っている。
 研究会は公務労協の提唱により設けられたものであるが、公務労協の方針とは自立して、議論も自由におこなわれ、それにもとづく報告書の結論も、あくまでも研究会自身の見解であることを付言しておきたい。
 研究会の委員と専門委員はつぎのとおりである。それぞれは合宿研究会をふくむ12回の研究会の議論に参加するとともに、報告書の執筆に当った。
 委員各位また公務労協初め関係者の皆様のご尽力とご支援に感謝の意を表したい。

 


〔委 員〕
  稲沢克祐(関西学院大学専門職大学院経営戦略研究科教授)
  佐藤 学(東京大学大学院教育学研究科教授)
  神野直彦(東京大学大学院経済学研究科教授) (主査)
  辻山幸宣(地方自治総合研究所・所長)
  坪郷 實(早稲田大学社会科学総合学術院教授)
  沼田 良(作新学院大学総合政策学部教授)
  堀越栄子(日本女子大学家政学部教授)
  間宮陽介(京都大学大学院人間・環境学研究科教授)
  宮本太郎(北海道大学公共政策大学院教授)  (幹事)
 
〔専門委員〕
  小川正浩(生活経済政策研究所主任研究員)
  佐野幸次(地方自治総合研究所常務理事・事務局長)
  成川秀明(連合総合生活開発研究所上席研究員)
                   (以上五十音順 敬称略)

 

2006年10月
研究会主査 神 野 直 彦

 

<目 次>

「公」の破壊に抗して

1 為政者がなすべきこと
2 本末転倒の財政再建主義
3 有効に機能する「ほどよい政府」
4 気をつけろ悪魔は老獪だぞ
5 希望への海図を

提言1 脱「格差社会」への公共サービス

提 言
提言の趣旨
1 労働市場の変容と対応
2 参加保障型の公共サービスへ
3 5つの領域での参加保障
4 参加を支えるミニマム保障制度を
5 参加保障か「再チャレンジ推進」か

提言2 ライフラインとしての教育の保障と未来投資としての教育の挑戦

提 言
提言の趣旨
1 未来投資に足る公教育費支出を
2 子どものライフラインとしての教育
3 教師の能力の高度化と教職の専門的地位の向上
4 「学びの共同体」づくりを

提言3 構造改革批判の上に立つ都市空間の創造

提 言
提言の趣旨
1 構造改革のもたらしたもの
2 国家と私の二極化―新自由主義とファシズムの類似性
3 都市問題

提言4 「誰でも普通に生きられる」社会と安心・安定した個人・家族生活をつくる
    新しい社会保障へのパラダイム転換

提 言
提言の趣旨
1 希望と幸せの好循環を支える社会保障制度へ
2 子育て、介護等の社会的リスクの支援策を
3 社会保障を支える自治とコミュニティの形成
4 共感の臨床サービスへ
5 参画保障による希望の社会保障

提言5 公共サービスを支える市民社会 ― 市民社会を強くする方法

提 言
提言の趣旨
1 公共サービスを支えるために、なぜ市民社会が重要なのか
2 市民社会を強くする方法

提言6 「良い社会」をつくる公共サービスの提供主体

提 言
提言の趣旨
1 提供主体間の「責任の体系」
2 自治体政府の責任による現物(サービス)給付
3 中央政府の責任によるサービス供給の持続性と財源保障
4 「自治」の場の保障

提言7 公共サービスをめぐる透明性の向上と参加のシステム化

提 言
提言の趣旨
1 情報の共有
2 政策の有効度を評価する仕組み
3 サービス利用者による評価の仕組み
4 サービス利用者・提供者の参加

提言8 価格偏重を改め、公共サービスの質の重視を
    ―民間委託・市場化テスト等への対応

提 言
提言の趣旨
1 価格偏重を改め、公共サービスの質を重視すること
2 人間らしい生活を営める賃金保障を
3 公契約条例の制定が急がれるべき
4 「二層賃金問題」を回避すること

提言9 公共サービスに携わる人々にディーセントワークを

提 言
提言の趣旨
1 ディーセントワークが良い質の公共サービスを提供する
2 高まるサービス需要に応えうる従事者数の確保と養成・研修を
3 公共サービス従事者と市民・利用者との新しいパートナーシップ
4 公契約条例の促進と公正労働基準条項の導入


提言10 良い社会をつくるための公務労働

提 言
提言の趣旨
1 三重の劣化の断ち切り
2 公務・公共サービスの拡充
3 公務労働を人間の尊厳を保てるような労働に
4 公務員のアイデンティティの確立
5 市民的公共圏を求めて

おわりに

 

 

「公」の破壊に抗して

1.為政者がなすべきこと

 これほどまでに豊かさがあふれた社会でありながら、これほどまでに悲惨な生活が溢れている社会があっただろうか。これほどまでに平和な時代だと吹聴されながら、これほどまでに暴力が横溢している時代があっただろうか。
 日本国民は今、日本の社会のどこかが狂い始めていると実感している。内閣府などの世論調査を眺めても、経済危機というよりも、社会が崩壊し始めていることがわかる。少年達の非行、異常な犯罪、自殺、麻薬など数えあげればきりがない社会的病理を眼前にして、このままではタイタニックが氷山に衝突したように、社会の破局を迎えるのではないかと恐怖しているといってよい。
 古(いにしえ)のギリシャの都市テーベを襲った未知の病のように、社会を崩壊させている原因を誰もが知っている。偉大な文化人類学者カール・ポラニー(Karl Polanyi)は、市場を「悪魔の碾(ひ)き臼」と指摘している。つまり、市場は人間が生活を営んでいる社会を崩していく「悪魔の碾き臼」としての作用を持っている。日本の社会の崩壊も、こうした「悪魔の碾き臼」としての市場を野放しにした結果だと誰もが知っている。
 しかし、こうした状況に為政者は、責任も罪も感じていない。いつの世にも非行も、犯罪も、自殺も存在するといいたげである。それは格差のない社会など存在しないとうそぶいていることからもわかる。
 孔子は『論語』で、為政者の心構えを「寡(すくな)きを患(うれ)えずして均(ひと)しからざるを患(うれ)う」と説いている。つまり、為政者たる者は、富がすくないことを嘆くのではなく、格差のあることに心を痛めるべきだと、孔子は教え諭している。
 ところが、「格差のどこが悪い」と小泉政権は声高に叫んだ。悪平等の社会よりも、市場を野放しにした格差社会のほうが、富を求めて競争し、豊かになると考えているからである。
 しかし、孔子は静かに教え諭している。格差のない平等な国にすれば、その国は自然に豊かな国になるのだと、孔子は為政者の心構えを説いている。
 世界を見回しても、平等な国は豊かな国である。ところが、貧しい国には大富豪が君臨している。孔子の教えこそ時空を超えた真理であることは容易に理解できるはずである。確かに、格差も社会病理も存在しない社会などない。しかし、いつの世も為政者は統治のために、その解消に努力した。封建領主でさえ、自らの蔵を開き、領民を救済している。もちろん、そうした努力にもかかわらず、格差や社会的病理は避けがたい。しかし、それを野放しにした暴君は、必ず統治に失敗している。

2.本末転倒の財政再建主義

 邪な意図を貫こうとすれば、欺瞞の論理が必要となる。欺瞞の論理は冷静に考えれば、すぐに論理矛盾を見抜くことができる。「増税の前に、必要なのは歳出削減だ」と政府は主張する。しかし、歳出を削減するのであれば、増税ではなく、減税を実施しなければならない。
 「歳出に無駄があるから、聖域なく歳出を削減する」と政府が主張するのも矛盾である。予算の編成権は政府にしかなく、無駄な予算を編成した責任は、政府にあるからである。しかも、無駄があるのであれば、増税をする必要などさらさらないはずである。
 欺瞞の論理は目標と手段とを転倒させる。経済とは経世済民の略であり、人民の苦しみを救うことでなければならない。人間の生活の手段にすぎない経済が、今では目標とされ、人間の生活はそのためのコストと意識されている。人間と人間の生活を目標にしないで、手段とすることほどの欺瞞の論理はないといってよい。
 「骨太の方針2006」における目標と手段との転倒現象は、財政再建至上主義に象徴されている。「骨太の方針2006」は「成長力・競争力強化」、「財政健全化」、「安全・安心で柔軟かつ多様な社会の実現」を三つの優先課題として掲げている。もちろん、財政は経済の活力を高めるため人材を育成し、国民の生活を保障して社会を安定化させる手段である。財政収支の帳尻あわせのために、経済が破綻し、社会が荒廃してしまえば、本末転倒である。
 「骨太の方針2006」は経済成長率、利子率、失業率などを所与として、2011年度に財政の基礎的収支の黒字が達成するとしている。しかし、その暁に国民の生活がどのような姿となっているのかは明らかではない。というよりも、経済財政運営の基本方針は現在、国民が不安に脅えている格差や社会的病理現象を解消し、国民が安心して幸福を追求する生活ができるようにするためにこそ策定されるべきである。しかし、「骨太の方針」はただひたすら、財政収支の帳尻合わせを追求しているといっても言い過ぎではない。
 小泉政権は「小さな政府」を経済財政運営の基本方針としてきた。いうまでもなく「小さな政府」とは、1979年に成立したサッチャー政権が掲げ、1981年のレーガン政権、1982年の中曽根政権に受け継がれたもので、1980年代を闊歩した新自由主義的経済思想にもとづいている。ここで忘れてならないことは、こうした新自由主義にもとづく「小さな政府」論が、第二次大戦後に先進諸国がこぞって目指した福祉国家に対する根源的批判として登場した点である。
 「骨太の方針」と同じように、ひたすら財政再建を目指した時代がある。それは1920年代である。第一次大戦後の1920年代には金本位制に復帰するために、とにもかくにも財政再建を実現しようとした。結果として、恐慌から恐慌へとよろめき、遂には昭和恐慌が生じ、都市と農村の格差が決定的となった。格差を口にする者は、しっと嫉妬を抱く者だと小泉政権は言った。しかし、義憤を抱く者もいる。昭和恐慌期の都市と農村の格差に義憤を抱いた軍部は、日本を戦争への道へと引き摺り込んでいく。
 市場は人間の社会を崩す「悪魔の碾き臼」である。国際的に市場を動かすために、金本位制を築こうとして、社会を崩し、遂には社会を保護するために、第二次世界大戦という不幸な結果が生じてしまったのである。
 
 国際均衡のために国内均衡を犠牲にした不幸な歴史に学び、第二次大戦後の福祉国家は、国際的自由貿易主義と国内における市場介入主義との両立を目指すブレトン・ウッズ体制を前提にしていた。ブレトン・ウッズ体制のもとでは、固定為替レートを維持するため、資本統制が容認される。つまり、租税負担率の高さや政治的要因によって、資本逃避(capital flight)が生じないようにする資本統制が認められ、それが福祉国家という市場介入主義の前提となっていたのである。
 ところが、1970年代にブレトン・ウッズ体制が崩れると、金融自由化が進み、資本は一瞬のうちに租税負担率の低い国へと逃避してしまう。そうなると1980年代には、第1図に示したように、租税負担率の低い日本などの経済成長率が高く、スウェーデン、デンマーク、ノルウェーなどのスカンジナビア諸国のような租税負担率の高い国は、経済成長をしないという関係が明確になってくる。つまり、ブレトン・ウッズ体制の崩壊とともに、「小さな政府」が経済成長をもたらすという新自由主義の経済思想が、説得力を発揮した時代が開幕したのである。
 しかし、規制緩和、民営化、行政改革を合言葉とした「小さな政府」は、福祉国家の行き詰まりを打開する道を、提示したとはいえない。確かに、福祉国家が実現した「栄光の30年」と名づけられた第二次大戦後の高度成長は終わりを告げ、物価上昇と高い失業率が並存するというスタグフレーションを前にして、福祉国家は立ちすく竦んでいた。とはいえ、「小さな政府」という新自由主義的経済政策が、スタグフレーションの克服に成功したわけではない。
 サッチャー政権はインフレーションの抑制には成功し、「イギリス経済の奇跡」といわれる生産性向上を実現した。しかし、失業率は増大し、サッチャー政権の下で倒産件数は5倍にも達している。もちろん、サッチャー政権が成立するまで低下していた所得間格差は、一転して拡大していく。
 こうした「小さな政府」がもたらす格差社会は、社会崩壊をもたらす。サッチャー政権の下で警察官の人員を増加させていったにもかかわらず、犯罪件数は記録的な増加を示していたのである。

3.有効に機能する「ほどよい政府」

 新自由主義的政策思想が全盛を極めていたかにみえる1980年代には、華華しい表舞台とは対照的に暗黒社会に帰結するという様相が明らかになっていく。もっとも、1980年代には福祉国家の限界を克服していく、もう一つの道が模索されている。その象徴が1985年に制定された「ヨーロッパ地方自治憲章」である。
 福祉国家の行き詰まりは、大量生産、大量消費を実現した重化学工業を基軸とする工業社会が終焉を告げ、知識集約産業やサービス産業を基軸とするポスト工業社会が産声をあげたことを意味する。男子労働の大量雇用を実現した重化学工業を基軸とした工業社会では、無償労働をする女性が家族内に存在する核家族を前提に、賃金を喪失した時に、賃金に代替する現金給付を保障することで、国民の生活を保障することになっていた。ところが、産業構造が転換していくと、雇用が多様化し、無償労働を担っていた女性の社会的進出も進む。そうなると、重化学工業の衰退にともなう経済のボーダレス化によって、現金給付そのものが動揺するだけでなく、家族内での無償労働の存在を前提にした現金給付だけでは、国民の生活保障が困難になる。
 しかも、第三次産業革命と呼ばれる工業社会からポスト工業社会へ向かう時代には、新しい産業創出や仕事づくりに冒険的挑戦が必要となる。冒険的挑戦を促進するには、冒険的挑戦に失敗したときに、生活を保障してくれる社会的セーフティネットが必要になる。
 もちろん、工業社会のように家族内無償労働の存在を前提にした現金給付には限界がある。そこで現金給付だけではなく、現物給付すなわちサービス給付で、社会的セーフティネットを張り替えていくことになる。つまり、これまで家族内やコミュニティ内の無償労働で提供されていた育児サービスや養老サービスといった福祉サービス、医療サービスや教育サービスといった対人社会サービスを供給することによって、社会的セーフティネットを張り替えていく。
 こうした対人社会サービスは、地域社会で営まれている生活に密着して供給される必要があるため、その任務は地方自治体が担うことになる。それゆえに、地方分権を推進する1985年の「ヨーロッパ地方自治憲章」が金字塔となっていく。
 もちろん、冒険的挑戦を可能にするには、ポスト工業社会の生産活動の前提条件としてインフラストラクチュアも整備する必要がある。しかし、それは工業社会の生産の前提条件と相違して、人間そのものの能力を高める教育サービスや、積極的労働市場政策という再チャレンジを可能とする現物給付となる。
 地方分権の進んだスカンジナビア諸国では、1990年代前後から、こうした現物給付を増加させ、産業構造を大きく転換させていく。人間の能力を高めて生産性を高めることによる国際競争力は、世界経済フォーラムの国際競争力ランキングでも高く評価され、毎年トップグループを形成している。
 こうした結果として1990年代の経済成長率と租税負担率との関係は、第2図に示したように、1980年代のそれとは一変する。1980年代のように「小さな政府」にすれば、経済成長をするという関係は見事に消滅してしまう。工業社会からポスト工業社会への歴史の転換期には、財政が大きいか小さいかではなく、財政が有効に機能したか否かが、経済成長率を左右したといってよい。というよりも、地方分権を推進して、身近な手の届く公共空間で「小さな政府」ではなく、「ほどよい政府」を国民が選択できるようにしなければならない。つまり、目指すべきは有効に機能する「ほどよい政府」だというのが歴史の教訓なのである。
 
 1980年代には「小さな政府」であるがゆえに日本は、経済成長では優等生として君臨したかにみえる。しかし、産業構造を転換するために必要な現物給付の公共サービスの給付を怠った日本は、新産業への冒険的投資が低迷した。経済成長で優等生でありながら、歴史の転換期で産業構造を転換する投資を怠ると、余剰資金によるバブルの狂宴が始まる。1980年代後半から1990年初頭にかけて、バブルの夢から醒めてみると、「失われた10年」が待っていた。
 それでも1990年代には、「もっと小さく」を合言葉に、法人税や高額所得者への所得税の大幅減税をすれば、資本が飛来するという夢物語を信じたのである。しかし、租税負担が低いにもかかわらず、教育も行き届き、優れた人材が存在するユートピアはありえない。1990年代には資本が、怒濤の如くに海外へと流出したのである。
 産業構造を転換しないで、旧来型産業構造を維持したまま、国際競争力を高めようとすれば、賃金コストを低めるしかない。国民の生活を保障する共同負担を低めることと並行して、労働市場をフレキシブルにして、非正規従業員を増加させ、労働コストを低めていかざるを得ない。もちろん、働く国民のモラール(志気)もモラル(倫理)も低下していってしまう。
 産業構造の転換をするために、国民の生活を保障し、チャレンジを可能にする現物給付を供給したスカンジナビア諸国は、1990年代に経済成長を高めていく。国民の生活を支える強い福祉(strong welfare)を実現するために、「強い財政(strong finance)を築こう」が合言葉として唱和された。国民の生活をより人間的にすることを目指した政策の結果、人間の能力が高まり、国際競争力が強まったスカンジナビア諸国は、国民の生活を犠牲にして労働コストを低めることで国際競争力を高めようとした日本が、悲惨な結果に陥ったのとは対照的な結果となっている。

4.気をつけろ悪魔は老獪(ろうかい)だぞ

 公共サービスが必要だとしても、政府がそれを供給する必要はない、あるいは「公」を担うのは政府だけではないという「新しい公共」が「小さな政府」論とセットで主張される。
 「骨太の方針2006」でも「規制改革」、「市場活力や信頼の維持と向上」、「公を支えるシステム改革」を「民の力」を高める三つの改革として掲げている。第二次大戦後、左から右まで「小さな政府」を大合唱してきた日本では、「小さな政府」の破綻を左から右まで市民が担う「新しい公共」の大合唱で糊塗しようとする。
 しかし、「気をつけろ悪魔は老獪だぞ」という警告を想い起こさなければならない。そもそも規制改革や市場活力を向上させ、市場に委ねると効率性が実現するという前提には、人間がホモ・エコノミクスつまり経済人であるという前提がある。人間が利己的に行動するホモ・エコノミクスだからこそ、市場に委ねれば効率性が実現すると主張しておきながら、人間が利他的に行動して公共を担うとするのは論理矛盾である。もともと新自由主義の「小さな政府」論は、大きな「社会」とセットで主張されてきた。サッチャー政府が「小さな政府」で福祉を切り捨てる時にはビクトリアの美徳を説く。つまり、19世紀中葉のビクトリア王朝期には「小さな政府」だったけれども、家族やコミュニティで生活を保障しあったではないかと主張する。日本でも「小さな政府」とともに「日本型福祉社会」、つまり伝統的な家族や地域社会で生活保障してきたではないかと唱えられたのである。
 しかし、敢えて繰り返せば、市場は「悪魔の碾き臼」である。19世紀中葉のイギリスでは市場の領域が小さかったことを忘れてはならない。「小さな市場」であるが故に、「大きな社会」が存在し、したがって「小さな政府」で事足りたのである。
 重化学工業を基盤とした社会では、大量の男子労働者が存在したけれども、家族内には女性を中心に無償労働が担われていたことは既に指摘したとおりである。それだからこそ、家族内で無償労働が存在することを前提にして、賃金を喪失した時の現金給付をすることで、福祉国家的生活保障が実現していたといってよい。
 しかし、産業構造の基軸が、重化学工業から知識産業やサービス産業にシフトしていくと、無償労働を担った女性の労働市場への参加が必要不可欠となる。というよりも、グローバル化するまでに拡大した市場によって、社会は「小さな社会」となってしまっている。こうした状況のもとで家族やコミュニティに生活保障を委ねる「日本型福祉社会」の提唱は、いくら厚顔でも繰り返すことができなくなっている。そこで「新しい公共」が主張されることになる。
 今日進められている「NPOの活動方針」による「新しい公共」は欺瞞の論理である。19世紀のように「小さな市場」ではなく「大きな市場」のもとで「社会」が崩されているからである。「大きな市場」のもとでは「社会」が果たしてきた無償労働による相互扶助代替の公共サービスを、政府が供給しなければ、人間の生活が営まれている「社会」は機能しなくなってしまう。
 実際、日本のように政府は降壇せよという「市民社会」論が主張されると、労働市場が分断されていく。つまり、政府による公共サービスが、家族やコミュニティの無償労働を代替しないため、無償労働に縛られたまま労働市場に参入する者と、そこから解放されて労働市場に参入する者とが出てくる。こうしたパートなどの非正規労働市場と正規労働市場が分断して形成され、低賃金で長時間労働が存在することになる。
 長時間労働に拘束され、労働市場の労働に加えて無償労働も担う者に、市民として「新しい公共」を担えということは、不可能を可能にせよという論理である。それは社会的排除の論理にほかならない。ここに参加できる市民は、富裕階層に限られることになるからである。
富の最大の効用は権力である。富にへつらい民主主義を壟断しようとする者は「市民社会」という言葉をもてあそびながら、馬脚をあらわす。19世紀中葉には「小さな政府」と「市民社会」が実現していたと主張される。しかし、それは富裕層のみが市民として参加していたにすぎない。
 こうして19世紀中葉の夢を追い求め、既に公然と富裕階層にのみ政治的権限を限定する「市民活動への1%支援条例」すら登場している。それは実質的には制限選挙の復活だといってよい。経費支出の決定権限は、すべての社会の構成員にある。「市民活動への1%支援条例」は富裕な直接税の納税者にのみ、経費支出の決定権限を認めるというものである。
 もちろん、その目的は富裕階層のみが「社会」の決定権限をもつ「市民社会」を形成することにある。直接税を納税していなくとも、貧しき者達は貧しい所得から重い間接税を負担している。しかし、そうした貧しい者達は政治に口を出すなといいたげである。
 「公」とはすべての社会の構成員を排除しない領域である。民主主義とはすべての社会の構成員に掛け替えのない能力があることを前提にしていることを意味する。未来は不確実で、誰にも知ることができない。それだからこそ未来の選択を、すべての社会の構成員の掛け替えのない能力を結集した共同意志決定に委ねるほうが、誤りがないということこそ民主主義にほかならない。
 政府による公共サービスこそ、労働市場への参加を保障し、社会への参加を保障する使命を担っている。こうした使命を果たすためには、政府という「公」の空間を社会の構成員の手が届く距離に設定することである。

5.希望への海図を

 歴史は何も語らない。しかし、歴史に学ばない者は必ず歴史によって断罪される。もちろん、失敗を恐れる必要はない。未来は不確実だからである。とはいえ、失敗を繰り返してはならない。
 1990年代の歴史的な経験に学ぶことなく、小泉政権は政府を「もっと小さく」と絶叫し続けてきた。経済的危機が深刻化すれば、政府を「もっと小さく」しなかったからだと、失政糊塗の論理を繰り返したのである。しかし、経済的危機は遂には社会的危機へと転化している。
 社会が危機にある時、未来への希望が失われている。危機を脱却しようとすれば、希望へのシナリオを描くことである。「骨太の方針」は希望へのシナリオを描いてはいない。「もっと、もっと小さく」と、聖域なく国民生活を支えている公共サービスを切り捨て、財政収支の帳尻合わせだけを追求しているにすぎないからである。
 もっとも、構造改革は失政ではなく、その証拠に、構造改革の成果がようやく実を結び、「いざなぎ景気」を更新する好景気が2002年以降、継続していると胸を張っているのかもしれない。
 しかし、「骨太の方針」は失政を省察しない失政糊塗の論理である。というのも、この景気回復は構造改革の成果ではないからである。2002年から継続している景気回復は、民需主導の景気回復と喧伝されているものの、それは外的天佑ともいうべき輸出主導による景気回復である。したがって、中国などの景気動向や外交という外的要因に翻弄されてしまう景気回復なのである。しかも、労働コストの抑制という国民の生活の犠牲の上に成立している景気回復である。
 大澤真理東京大学教授によると、1998年における日本の労働費用は27,664ドルで韓国の22,962ドルを上回っていた。しかし、2004年になると韓国が36,125ドルに対して、日本は35,703ドルと、韓国に追い抜かれてしまっている。それでも「骨太の方針」は「もっと小さく」と主張する。それも財政再建のためにである。
 それは1980年代に、サッチャー政権やレーガン政権が経済成長のために「小さな政府」を主張したのに対して、1980年代の日本は、経済的パフォーマンスが良好だったがゆえに、財政再建のために「小さな政府」を唱えた履歴効果といってよい。しかし、スウェーデンやデンマークという租税負担率の高い政府の財政は黒字なのに対して、日本やアメリカという租税負担率の低い「小さな政府」の財政は、赤字であることを忘れるべきではない。
 財政危機は経済危機と社会危機の結果にすぎない。経済が不調に陥ると、財政収支は赤字となる。戦争などの社会危機が発生すれば、財政収支は必ず赤字となる。財政収支の帳尻合わせは簡単である。増税をするか、経費を削減すればよいからである。もちろん、その結果として経済危機や社会危機が激化すれば、全く意味もないどころか、財政的危機に陥っていく。
 ところが、経済危機と社会危機が解消されれば、財政危機からも脱出できる。日本は社会危機に苦悩している。その解決に財政が動員されなければ、日本社会はタイタニックが氷山に激突したように、破局への進路を進むことになる。
 「骨太の方針」は「新たな挑戦の10年」の出発点に我々は立っていると主張している。しかし、財政を有効に機能させ、ほどよい政府を築いて、適切な現物給付を供給しなければ、「挑戦の10年」ではなく、再び「失われた10年」となることを、歴史の教訓は諭している。
未来は不確実である。しかし、未知の大海に船出するにあたって、描かなければならない海図は希望への海図であり、このままでは日本社会は破局へと舵を切り続けることになってしまう。
 
 「良い社会(The Good Society)」を目的地として海図を描くとすれば、この「良い社会」とは1937年にリップマン(Walter Lippmann)が描いた「良い社会」ではないはずである。リップマンが想定した「自然的自由という自明で単純な体系」を超えなければならないと考えたベラー(R.N.Bellah)が1991年に描いた「善い社会(The Good Society)」に近いはずである。というよりも、1996年にガルブレイス(J.K.Galbraith)が描いた資本主義と社会主義を超えた「良い社会(The Good Society)」を目指して船出する時が来たのである。

提言1 脱「格差社会」への公共サービス

提 言

  1. 格差社会の是正のためには、労働市場のなかで同一価値労働に対する平等な処遇を実現したうえで、公共サービスによって、人々の就労を困難にする諸要因を除去することが必要である。こうした人々の「参加保障」の実現という観点から、教育、職業訓練、介護・保育、高齢者・障碍者の就労支援、都市のインフラストラクチャーという5つの領域で、公共サービスの達成度を評価し、整備をすすめるべきである。
  2. なかでもOECD諸国に比べてきわめて低い水準にある積極的労働市場政策、職業訓練については予算を拡充し、併せて企業内職業訓練への補助などその効果的な活用につとめることが必要である。
  3. 基礎年金、生活保護、税制、最低賃金など諸制度の枠でばらつきがあり、全体としてきわめて低水準にある最低限所得保障について、一貫した水準を明示する。その水準は、人々が社会参加と就労をとおして他の人々との相互的な関係を実現することができる水準に設定されるべきである。
  4. 「再チャレンジ」は、中途採用や社会人入学など就労、就学の形式的機会を拡大するのではなく、その機会を利用する資金や時間という点で実質的な条件が保障されなければ無意味なスローガンである。上記「1.」および「2.」の観点からその実質的条件をめぐる議論がなされるべきである。

提言の趣旨

1. 労働市場の変容と対応

 OECDデータによるわが国の相対的貧困率、すなわち所得中位層の半分以下の所得の人々の割合は、2001年で15.3%となり、先進工業国ではアメリカとアイルランドにつぐ水準となった。確実に格差が広がっている。2005年には年収300万未満の世帯が30.6%となり前年度に比べて1.8%の増となった、20代では年収150万未満が2割に及ぶ。
 格差は一部で言われるような、人口高齢化に伴う見かけの現象などではなく、20代、30代の若い世帯において広がっている。
 格差拡大の背景にあるのは、これまで日本の社会の安定に大きな役割を果たしてきた雇用と家族の揺らぎである。非正規雇用が就労人口に占める割合は、99年の28%から03年の35%にまで増大した。わが国よりもパートタイム雇用の割合が多い国はオーストラリアとオランダであるが、両国はフルタイム雇用とパートタイム雇用の賃金格差は15%以内である。これに対して、わが国は、パートタイム雇用の割合が大きいだけではなく、フルタイム雇用との賃金格差が大きい。90年代初めに男性パートタイム賃金はフルタイム賃金の57%であったが、これが50%にまで拡大している。
 他方で、フルタイムの男性稼ぎ主と専業主婦からなる標準世帯はしだいに減少し、家族の就労形態の多様化がこの非正規雇用と重なって新しい階層秩序をつくっている。世帯主が40歳から49歳の世帯でみると、夫、妻ともにフルタイムの世帯の年収が1035万円、夫がフルタイム、妻がパートタイムの世帯が766万円、次に夫フルタイム、妻無業のいわゆる標準世帯がきて646万円、これに夫パートタイム、妻フルタイムの536万円が続く。
 家族のなかでフルタイムの稼ぎ手が少ない世帯は、大きな低所得リスクに直面しつづけることになる。世帯間の格差を示すジニ係数は、若い世帯で増大傾向にある。これに対して高齢世帯ではむしろジニ係数は縮小傾向にあるが、ここでも単身世帯などには低所得が目立つ。

2.参加保障型の公共サービスへ

 格差は突然に現れたわけではない。既に小さな政府であった日本では、所得の再分配によって格差を是正していく機能は抑制されていた。日本のジニ係数は、もっとも小さかった70年代半ばでも、北欧や大陸ヨーロッパ諸国を上回っていた。他方で、アメリカ、イギリス、オーストラリアなど、アングロサクソン諸国に比べると抑制されていた。アングロサクソン諸国は、福祉国家の規模では日本より大きかったが、日本では福祉国家的な再分配とは異なった方法で、すなわち、経済政策によって企業の雇用を安定させ男性稼ぎ主の雇用と収入を確保したうえで、これを家族主義をとおして家族構成員に行き渡らせる、という仕組みで社会を安定させてきたのである。ところがこうした仕組みは、80年代の半ばくらいから次第に批判の矢面に立ちはじめ、バブルがはじけるころには、経済的不効率の象徴としてその解体が叫ばれるようになる。対日投資条件の拡大を求めるアメリカの要求もあり、しだいにその解体に着手されるようになる。
 ところが、こうした改革の結果、多くの世帯と個人が低所得リスクに遭遇しているにもかかわらず、社会保障制度が機能していない。日本の社会保障制度は、もともと安定した雇用と家族を前提に設計されていたこともあり、家族政策など人生前半の社会保障、就労支援や再訓練などの人生中盤の社会保障が弱く、人生後半の所得保障に力点がおかれたものになっていた。日本は、所得保障の対象を、企業と家族がカヴァーしきれない層に絞り込む傾向があったが、こうした制度的条件のもとで失業したり、家族の紐帯に頼ることができなくなった人々は、頼るべき支えがないのである。
 人生前半、中盤の社会保障と公共サービスを抜本的に強化する必要がうまれている。ただし、従来型の社会保障の直接的延長で、年金か児童手当か、介護保険か職業訓練か、といった資源のとりあいになってはならない。問題は、企業と家族を補完する「小さな集権的政府」に代えて、参加保障を実現する、ほどよい規模をもった分権的政府への転換を図っていくことである。そのような観点からの公共サービスの拡充こそが、脱「格差社会」への最良の処方箋となる。
 ここでいう参加保障とは、労働市場への参加すなわち就労と、地域でのさまざまなアクティビティへの参加をともに含み、さらには地域社会を形成していく政策過程への参加をも射程に入れたものである。所得保障が重要ではなくなった、という意味では決してない。そうではなくて、人々が活き活きとした社会参加を実現するために、その参加を妨げる諸要因を取り除く方向で所得保障と公共サービスが連携していくことが重要になっているのである。

3.5つの領域での参加保障

人々の参加を妨げる要因とは何でありこれを取り除くとはどういうことであろうか。地域社会において、以下の5つの領域での参加保障が焦点となり、それに対応した公共サービスの展開が求められている。
 第一にそれは、知識や能力の欠如や未熟であり、これに対処するのは生涯教育を含めた教育サービスである。
 第二に、家族や身近な人へのケアであり、これに対処するのは育児や介護の公共サービスである。
 第三に、技術や技能の陳腐化や欠落、職業生活からの疎外であり、これに対処する職業訓練や社会的トレーニングである。
 第四に、加齢や障碍、あるいは様々な心身の弱まりに起因する参加困難であって、これに対処するのは、高齢者サービス、障碍者サービスあるいはDVや引きこもりなどの新しい苦しみへの支援である。
 第五に、社会参加の基本的前提にかかわっては、交通や水道、通信などのインフラストラクチャーの安定が不可欠になる。
 「参加保障を実現する、ほどよい規模をもった分権的政府」とは、以上のようなかたちで人々が直面する参加困難を除去することに責任をもつ政府である。5つの領域での参加保障においては、自治体を中心としつつも、多様な民間団体とのベストミックスがすすめられてよい。しかし、この参加保障のサービス提供は、原則として無料でおこなわれるべきである。他方で、こうした公共サービスが具体的にどのようなかたちで提供されていくかは、市民の身近なところで、その政策参加を経て決定されていく必要がある。デモクラシーの理念に照らしてのみならず、そのようなかたちが参加保障のために効率的であるからである。

4.参加を支えるミニマム保障制度を

 母子世帯の平均収入や基礎年金よりも生活保護の水準が高いケースがやり玉に挙がり、「生活保護バッシング」が広がる傾向にある。最低賃金、生活保護、年金、さらには税制なども含めて、各制度で一貫したナショナル・ミニマムのラインを示していく必要がある。
 ただしそれは、「低い方にそろえる」ということであってはならない。OECDのデータでみれば、フルタイム労働者のメディアン(中位)賃金への比率でみて、最低賃金はフランス60.8%、イギリス41.7%、アメリカ36.4%に対して日本は32.9%で、ポルトガルやギリシャなどより低い。にもかかわらず、最低賃金や年金制度の不備が検討されるよりは、低い方への引き下げ圧力がかかり、生活保護の高齢加算が廃止され、母子加算が見直される。高齢の生活保護受給者には深刻な生活状況に立ち至っている人々も少なくない。こうしたなかでは、やはり各制度をこえたミニマム保障のラインを示していくことが大切である。
 他方で、こうしたミニマム保障は、条件のある人々については、その自立と参加を下支えするためのものであること、「セーフティネット」というより「トランポリン」であることを明確にして、中間層を含めた幅広い合意を形作っていく必要がある。日本を含めた各国で中間層の社会的扶助批判が強まるのは、彼ら彼女らもまた雇用や家族に関するリスクと闘っているからである。だからこそ介護保険制度のような普遍主義的な制度への支持は強まるが、他方でそこでの自己負担の設定などが低所得層を圧迫する。だが中間層も恒常的に大きなリスクに直面しているということは、彼ら彼女らが、あるいはその関係者がミニマム保障制度を利用する可能性も高まっている、ということである。討議をつくせば、参加のためのミニマム保障について、合意可能性は広がっているともいえるのである。
 参加のためのミニマム保障という考え方は、就労や社会参加を条件とした戻し税制度である「税額控除」制度にもみられ、欧米では導入が積極的にすすめられている。また、アトキンソン教授が提唱する「参加所得」制度は、就労だけでなく、教育、家事などへ参加していること、あるいは年金受給者等であることを条件として、すべての市民に最低所得保障をおこなうものである。こうした新しい構想をもふまえて、制度横断的な参加のためのミニマム保障が設計されなければならない。

5.参加保障か「再チャレンジ推進」か

 小泉構造改革の帰結に対する市民の困惑が広がるのをみて、ポスト小泉レースをにらんで安倍官房長官(当時)は、早い段階から「再チャレンジ推進」を掲げ、2006年3月には各省庁の局長級の官僚が参加する「多様な機会のある社会」推進会議(再チャレンジ推進会議)を設置して自らが議長となった。5月30日にはその「中間とりまとめ」が発表された。併せて国会では「再チャレンジ推進議員連盟」が結成された。
 「再チャレンジ推進」なる理念に関する限り、それがきちっと論じられた形跡はないし、「中間とりまとめ」は各省庁からのステートメントを綴じ合わせた典型的な官僚的文書にすぎない。しかし、この再チャレンジ論には、格差社会への市場主義的な対応ともいうべき、ある典型的発想が現れている。参加保障の実現と「再チャレンジ推進」はどのように異なるのか。
 第一に、参加保障の実現が、普遍主義的に、つまりすべての市民を対象に、かつ事前的におこなわれるのに対して、「仮に失敗しても何度でも再チャレンジができ、「勝ち組」「負け組」を固定化させない社会」を謳う「再チャレンジ推進」は、選別主義的に、つまり「失敗」したとされる人々を抽出して、事後的におこなわれるものである。「中間とりまとめ」では、事業に失敗した自営業者、会社をリストラされた人々、障碍者、若者、高齢者などが一括りにされていて大いに疑問であるが、いずれにせよ、市場のルールを前提にそこからの「失敗」者を括りだし、こうした人々に「再チャレンジ」を奨励するのが「再チャレンジ推進」論である。
 第二に、それではその対処とは何かといえば、参加保障の実現が市民をとりまく参加困難の除去を図るのに対して、「再チャレンジ推進」論のポイントは、企業の中途採用の拡大、フリーターを公務員として採用する措置、大学院への社会人入学枠の拡大など、「失敗」者として括り出された人々が「再チャレンジ」する機会の形式的拡大にある。しかし、仮に機会が形式的に拡大されたとしても、人々にはその機会を活用する現実的条件を欠く場合が多い。ところが再チャレンジ論には、コストを担ってその現実的条件をつくりだそうという構えはまったくない。
 第三に、再チャレンジ論で問題になっているのは、もっぱら労働市場への再チャレンジであり、ワーキング・プアの出現など、当の労働市場がかかえている問題にどう取り組むのかは問題にされない。これに対して、参加保障型の政府は、労働市場のみならず地域社会と政策過程への参加を促しつつ、労働市場のあり方を変えていこうとするものである。
 今日の労働市場において、非正規雇用や低熟練労働で労働市場に参入した若者が、最後までそこから抜け出せず、場合によってはワーキング・プアと呼ばれる状況に陥ることが放置されてはならない。最低賃金の見直しと非正規雇用への社会保険の拡大などと併せて、生涯教育や再訓練など地域社会が提供するさまざまなサービスに参加する回路を準備しなければならない。労働市場とその外部を繋いで、人々が能力を高めながらより安定した高度な仕事に就いていく、らせん的な能力発展を内包したライフサイクルを実現する必要がある。

提言2 ライフラインとしての教育の保障と未来投資としての教育の挑戦

提 言

 教育は、一人ひとりの子どもの社会的自立を保障するライフライン(生命線)であり、同時に、子どもと社会の将来を決定する未来投資である。公共サービスとしての教育は、この二つの機能に即して実施されるべきである。ここでは特に以下の諸点を提言する。

  1. 学校教育はすべての子どもの学ぶ権利を実現し、生涯にわたって学び続ける基礎となる教養を形成しなければならない。一人も落伍者を出さない教育を実現することによって、学校は子ども、保護者、市民に信頼される学校へと改革されなければならない。
  2. 分権改革によって教育費の地域間格差が拡大している。子ども一人当たりの公教育費のミニマム・スタンダードを定め、どの地域のどの学校で学んでも一定水準以上の教育を受けられるよう、国と地方の教育費の責任のバランスを検討する必要がある。
  3. 21世紀は知識が高度化し複合化し流動化する社会であり、教育内容と学びの方法の高度化が求められている。教育において問われているのは、知識や学びの「量」よりも「質」であり、都道府県教育委員会が実施し文部科学省も実施を決定している標準学力テストも、教育の「質」を評価する指標の一つとして活用されるべきである。
  4. 21世紀の学校は地域の教育と文化のセンターとなり、学校は子どもと教師と保護者が共に学び合う「学びの共同体」へと改革されるべきである。市町村教育委員会と各学校の校長は「学びの共同体」を実現するヴィジョンとプランを提示すべきであり、改革プランに即した評価システムを構築すべきである。
  5. 校長と教師の専門職性と創造性と自律性を高めるために、官僚主義化した教育行政と学校経営を民主的に単純化し、教員の配置と予算の運用は校長の裁量に委ね、当事者責任による柔軟な管理と経営を確立する必要がある。
  6. 教育改革の成否はすべて教師の資質と能力の向上にかかっている。教師が大学院において専門家教育を受ける機会を拡大するとともに、授業の事例研究にもとづいて専門家としての実践的見識を開発し合う同僚性をすべての学校に築き、高度知識社会にふさわしい教職の高度化を達成する必要がある。
  7. 子育ての公共サービスの民営化が進行し、学校への信頼が薄れる中で保護者の教育費負担が増加し、もう一方で、経済的困窮のために就学援助を求める家庭が増えている。すべての子どもが十全な教育を保障されるよう、多様な就学援助と教育サービスが準備されるべきである。

提言趣旨

1.未来投資に足る公教育費支出を

 「小さな政府」へと突きすすんできた小泉内閣による財政改革のもとで、少子化に対応して公教育費は削減し、その余剰分を高齢化に伴って増大する社会保険費に充てようという政策が、次第に優勢を占めつつある。特に都道府県の知事部局を中心に、教育財政の「聖域」を崩して一般財政化し、他の公共サービスと同様、官から民へ民営化できるものは民営化する方策が検討されている。このような財政政策は公教育費を「支出(expenditure)」として扱い、公教育費がすべての子どもの社会的自立と社会参加の保障をおこなう「ライフラインとしての公教育」の機能と、公教育費が子どもと社会の将来の幸福を準備する「未来投資」の機能をもつことを無視している。公教育費の充分な支出をおこなうことは決して公費の浪費ではない。
 近年の統計によると、日本の公教育費の支出の総額はGDPの2.9%であり、OECD加盟30ヶ国の平均4.6%を大きく下回って最低ラインに位置している。これでは公教育のライフラインとしての機能も未来投資の機能も果たしようがない。

2.子どものライフラインとしての教育

 ライフラインとしての教育の機能について言えば、都市部と都市郊外の子どもの貧困問題が深刻化している。東京都の23%の児童・生徒、大阪府の27%の児童・生徒が「就学援助」の対象となっており、大阪の高校生の40%が授業料を払えない貧困層に属している。貧しい世帯にとって子どもの教育は「ライフライン」の保障を意味しているが、この数年、公立の保育所や公立の幼稚園が市町村自治体の財政難により次々と閉鎖され、保護者の教育費負担が増大している。年収400万円以下の貧しい世帯における家計に占める教育費の割合は60%に達している。貧しい家庭ほど、子どもが十分な教育を受けられるかどうかは、その子どものライフラインとしての意義をもつ。少なくとも高校卒業までの基礎学力をすべての子どもに保障し、生涯学習の基礎となる教養を形成する必要がある。

3.教師の能力の高度化と教職の専門的地位の向上

 他方、教師の資質と能力の劣化を阻み、21世紀の高度知識社会に対応した教職の高度化を達成することも喫緊の課題である。団塊世代の教師の大量退職により、今後12年間で教師の4割以上が入れ替わる。すでに大量採用時代は、東京、大阪などの都市部では始まっており、ほとんど無試験とも言われる大量採用によって教師の資質・能力が急激に劣化する危険が指摘されている。それに加えて、すでに46道府県において少人数学級が導入されているが、それに伴う教師の増員分はほとんどが非常勤講師、臨時採用講師によって充足されており、学校現場では非常勤と臨時採用の講師が氾濫し、学校教育の水準の劣化が深刻化している。しかも、教員給与は低下の一途をたどり、今や教職は労多くして報酬が報われない職業へと転落し、定年まで仕事をまっとうする教師の割合は4割を割っている。教師の資質・能力の高度化と教職の専門的地位の向上は緊急の課題である。
地方教育委員会および学校がなすべきこととして、教師の資質と能力を高度化するために大学院が提供している現職教育の機会を多くの教師が活用する道を開くとともに、校内において授業の事例研究による研修を活性化することが何よりも重要である。

4.「学びの共同体」づくりを

 全国各地の小学校、中学校で「学びの共同体」を標榜する学校改革運動が進展している。この草の根の運動は、21世紀の学校のヴィジョンを「民主主義」と「公共性」と「卓越性」の追求という三つの原理で構成し、学校を子どもたちが学び合う場所だけでなく、教師たちも学び合う場所であり、同時に保護者や市民も学び合う場所にする改革を推進している。茅ヶ崎市浜之郷小学校、富士市岳陽中学校をパイロット・スクールとして成立したこの学校改革運動はまたたくまに全国に普及し、「浜之郷スタイル」を取り入れて改革に挑戦している小学校が2000校、「岳陽スタイル」を導入して改革に着手している中学校は1000校近くに及んでいる(全国の小学校、中学校の1割)。「学びの共同体」づくりを推進している学校では、不登校や学級崩壊や校内暴力や低学力問題などが「奇跡的」と思われるほど解決され、学校が地域社会の教育と文化のセンターとして発展している。これら教師たちが学校の内側から改革を推進している事業を地方行政は支援する責任がある。教育は未来投資の事業である。現在の教育行財政は、文部科学省においても地方教育委員会においても、現在の財政危機への対処に追われ、未来投資として教育に充分な思慮と政策と財源を投入することを怠っている。それでは子どもの将来も地域社会の未来も期待できないことを銘記すべきである。

提言3  構造改革批判の上に立つ都市空間の創造

提 言

 都市はさまざまな中間組織・団体の中でも一等特別な地位を占めている。というのは、都市は教育、医療、ボランティア、その他、他の中間組織を包含する地位にあるからである。この意味で都市は生活空間そのものであり、その衰退は他の中間組織にも大きな影響を及ぼす。よってその再生を図り、すぐれた生活空間を創造することは何にもまして喫緊の課題であるはずである。
そのために、

  1. 市民を都市づくりの主体とすること。この場合の都市づくりとはたんに物的な意味での建設もふくむ、広義の意味においてである(ドイツはフライブルク郊外のBauBahnが参考になる)。「市民」はむしろこのような営みの中から生まれてくるものであろう。
  2. 都市空間の再生と創造には地方分権化が不可欠だが、地方分権化が地方の自己責任の観点からのみ主張されるのは間違いである(このような主張は福祉を自己責任の観点から民営化する議論と同じ)。教育や医療を自己責任で営むことができないのと同様に、地方分権とその下での都市づくりも完全な自己責任で行うことはできない。収入を自前でまかなうことができない自治体があるのは当然だし、教育にもお金がかかる。大事なのはこのような場合、国はお金を出すが口は出さない、という原則を確立することである。

中間組織が国家と私に分解していくということは、私が非政治化し、政治を国が独占していくということである。このような流れは都市の問題を超えて、デモクラシーの生存に関わる問題である。都市空間の再生を問題にするその先には、デモクラシーの問題があることを見据えなければならない。

提言の趣旨

1.構造改革のもたらしたもの

小泉構造改革はさまざまな格差(勤労者間、企業間、学校間、都市間・・・)を生み出すとともに、私化と国家化の同時進行と二極化をもたらしている。「民間にできるものは民間に」というのは構造改革の謳い文句であるが、現実には民間=私の肥大化をもたらすとともに公=国家の肥大化を帰結している。例えば、教育の構造改革は株式会社形態の中・高・大学を生み出し、この流れは、構造改革特区からやがて全国に広まっていくであろう。また、学校間、子どもや学生間での競争が推進され、昨今の大学はビジネスの様相を強めつつある。その一方で教育の国家化も顕著である。最近中教審は、小学校において古典の音読を導入すべきことを検討課題としたが、これが教育勅語の暗誦につながらないという保障はない(大阪のある幼稚園では教育勅語の音読を実践している)。教育の国家化は自民党の教育基本法改定案においても顕著である。現行基本法では教育は国家から独立した(といっても私的な、ということではない)独自の営みとして認識され、国家はこのような営みに対して財政その他の面で義務を負うとされている。しかるに改定案では、国家には教育のプランナーとしての位置づけが与えられている。これは教育の国家によるクーデタの試みといっても過言ではない。教育だけではない、医療その他至るところで、「自由」化と国家化、私化と国家化の二極化が進行している。

2.国家と私の二極化―新自由主義とファシズムの類似性

 国家化と私化の同時進行と二極化(大きな民間と大きな国家)は新自由主義的政策の帰結と見なすべきである。もともと、教育も医療も、そして都市も、私でもなければ国家的な公でもない中間的性格をもっていた。この中間的性格はその目的に表れている。教育は私的利益の手段でもなければ国家目的の手段でもない。子どもの健やかな成長を図り真理を追究するのが教育である。都市は快活な生活を送る場である。
 これら中間的性格をもつ領域は狭義には中間団体あるいは中間組織と呼ばれてきた。古典的には教会、同業組合、自治都市などがそうである。これらが国家の恣意的な介入に対して強く反発してきたことは歴史が示している。自治都市はそもそも王権から自由な空間として創設されたものである。むろん古典的な例は中間団体の特殊な例にすぎない。現代においては学校などの教育システム、医療、労働組合、NPO、その他、各種各様の組織が存在し、これらは公と私の間にあって、独自の目的、行動原理をもっている。
 国家的な公と私の間にあるということは、これらの組織・団体は半公的、半私的な性格をもっているということである。これを言い換えれば、国家的事業としても私的事業(ビジネス)としても運営可能だということである。新自由主義はここを突き、半私的を全私的とする。
だがそれと平行して、半公的部分は国家的となる。つまり、新自由主義は意図すると否とに関わらず、中間組織を公と私に分解するのである。中曽根民活が労働組合を衰微させたのもその一例であろう(この点は中曽根氏自身が明言している)。ただしこの場合は、国家の位置を社会的権力として企業が占めている。
 中間組織を分解する点で、新自由主義は奇しくもファシズムと同等の働きをしている。ファシズムもまた、労働組合などの中間組織を公と私に分岐させたからである。山口定(『ファシズム』)によれば、「自由主義的民主主義体制のもとでは、『国家』の『社会』生活への介入の範囲は、個人主義的諸権利の保護によって制約されているばかりでなく、社会生活レベルの諸団体――教会、大学、同業組合、労働組合、市民団体、文化団体――の多元主義的なあり方によっても事実上大きく制限されている」。ところが、「ファシズムの特徴は、単なる政治団体レベルでの一元化にとどまらず、多くの場合、こうした既成の社会団体――社会学では国家権力と個人との中間にある媒介集団として『中間団体』(intermediary groups)ということが多い――の一元化にまで進むところにある」。もっともファシズムは中間組織を解体した後、こんどは分岐した公と私を癒着させたわけだが(たとえばコーポラティズム)、新自由主義の場合も、このような癒着化(私の公への翼賛化)の可能性がないわけではなく、現にそのような動きが出始めている。

3.都市問題

 都市においては、国家と私の二極化は二重である。一つは都市づくりにおける国家的あるいは行政的な公と他方での私の分岐。日本の都市計画はもともと欧米に比べると格段に中央集権的である(都市計画法第3条第2項参照)。このような体制を維持したまま、都市の規制緩和によって都市の市場化を推し進めているのが都市の構造改革である。ここでは都市の住民(市民)が都市づくりの主体になることはない。
 もう一つは、都市の内部における国家と私の二極化である。都市をある視点から見ると、それは私的空間、半私的空間、半公的空間、公的空間というようにさまざまな濃度をもつ私的・公的空間が連鎖を形作っている。ところが近年、中間の半私的・半公的空間が衰微して、家を一歩外に出れば、そこはもう自動車が行き交う公的空間となっている。最近日本でも出現しているゲイテッド・コミュニティはその一例である。民間のマンションにも内外をオートロック式の出入り口で仕切った、ミニ・ゲイテッド・コミュニティとでも呼べるものが増えている。住居あるいは住居群の内外を壁やオートロック式のドアで分離するのは、セキュリティを高めようとするためであるが、これが功を奏するのは、「他の条件が変わりない」場合、すなわち、外部空間に劣化が見られない場合だけであるが、外部空間に背を向けて暮らす方式は大なる可能性で外部空間の衰退を招き、そのため内部空間のセキュリティも低下する可能性が大きい。
 最近多発している子どもの犯罪あるいは子どもが被害者となる犯罪は、都市空間の二極化、というより、半私的・半公的空間の衰退と密接な関係があると思われる。もっといえば、広い意味での教育も都市空間の衰退と密接な関わりがあるかもしれない。子どもの犯罪にしろ教育問題にしろ、政府はこれらを子どもの心の問題にしがちであるが、都市問題の一環として捉えた方がむしろ事実に即しているであろう。

提言4 「誰でも普通に生きられる」社会と
    安心・安定した個人・家族生活をつくる
    新しい社会保障へのパラダイム転換

提 言

  1. 物の豊かな社会、高学歴志向、成人男性の安定した就業、専業主婦のいる家族を前提とした戦後の社会保障枠組みから脱し、誰もが幸せを追求できる社会、生涯学習、安定した就業、共同する家族を枠組みとする社会保障に仕組みを切り替え、格差と不平等の固定化と悪循環を回避する。すなわち、個人と家族の希望と幸せの好循環を支える社会保障制度とすべきである。
  2. 希望と幸せの好循環を準備するためには、現代のライフサイクルと生活困難に見あった社会保障を組み立てる必要がある。とくにライフサイクル上でこんにち大きな社会的リスクとなっている子育て、介護、家族福祉支援のための制度の整備と重点的な財源配分が求められる。
  3. 社会保障の基盤である「支えあいマインド」と社会連帯のプロセスをつくる自治とコミュニティを形成することが重要である。社会サービス(現物・サービス給付)を自治体政府の責任で提供し、地域社会の再構成として実施していく必要がある。社会保障制度は、支えあいの社会づくりと表裏一体であることを忘れてはならない。
  4. 公共サービス労働者は、現代人の抱える不安や生活困難・社会的排除に真剣に向き合い、当事者や市民と協働して課題を解決していく働き方が重要である。
  5. 参画保障が希望の社会保障のためには大切である。とくに地域生活を支援する現物(サービス)給付の場合、誰もが完全参加できるシステムをつくることにより共感と信頼、連帯、共同生活を育む地域社会が形成されるであろう。

提言の趣旨

1.希望と幸せの好循環を支える社会保障制度へ

 幸せは人により多様だが、こうしたい、こうあったらいいという欲求や希望が達成したときに幸せを感じることが多い。そして希望は、努力が報われると感じるときに生じ、努力が報われないと感じれば絶望が生じるという(山田昌弘『新平等社会』)。しかし、個人と家族の努力による生活確保には限界がある。社会制度の支えなしには努力も報われることは困難であり、希望も生まれてこない。とりわけ低い生活水準(生命の維持、生計の営み、人生を生きることを含む)への固定化と絶望との悪循環を避けなければならない。
 社会制度とりわけ社会保障制度の枠組みと内容は、その社会(政府、使用者、労働者や市民)が誰にどのような生活水準を保障すべきと考えるかによって決まる。戦後は、人並みの家電製品の所有により生命の営みを確保することと、そのための生計の確保により自分らしい人生をいきることとが近似しており、その実現が人間のプライドを保つことでもあった時代の社会保障制度として、所得保障の仕組みづくりに重点が置かれた。
 1979年以降、「物の豊かさ」より「心の豊かさ」を選択する人が一貫して増加し倍となっている(内閣府「国民生活に関する世論調査」)。「心の豊かさ」は個人により多様であり、ライフコースを始めとした選択肢の幅や社会的関係、環境の有り様や関係に関連する。雇用についてみれば、非正規雇用は拡大し、若者の失業率は高い。また、私生活の砦であり社会生活との交点である家族はますます小規模化し、1997年以降、「雇用者の共働き世帯」はいわゆる「専業主婦のいる世帯」を上回っている(内閣府「男女共同参画白書」)。
 生活保護についてみると、平成7(1995)年以降、保護率は上昇し、過去最高の100万世帯に達している。今後、当分、高齢のみならず未婚のままの単身世帯の増加、労働力の流動化、若者の低所得化など、状況を好転させる材料は乏しい。被保護世帯は傷病・障害、精神疾患、DV、虐待、多重債務、元ホームレスなど多様な問題を抱えており、相談相手がいないなど社会的つながりは乏しく、不安定な職業経験しかない場合が少なくなく、固定化が問題となっている。
障害児・障害者家庭、介護家庭では、家族(とくに女性)介護があてにされ、当事者、介護家族ともに普通の市民生活を送ることはむずかしい。
1992年以降、「日常生活での悩みや不安のある」人は増え続け、「ない」人の倍以上となっている(内閣府「国民生活に関する世論調査」)。
人々の欲求が空腹を満たすレベルから遙かに高度化した社会においては、このように、所得保障のみでは解けない問題が今日的特徴であり、こうした一人ひとりの努力で解決できない課題に対応するには、一人ひとりが幸せを追求できる、地域における現物(サービス)給付を軸とした新しい社会保障への転換が必要である。

2.子育て、介護等の社会的リスクの支援策を

 人はライフサイクル上必然的に、また偶発的に生活困難を抱える。前者で言えば、自分が幼いとき(若い親は低収入)、就業期、子育て期(養育費、教育費)、高齢期である。住宅ローンがあればそれも困難の原因となる。すべての人に該当するわけではない生活困難としては失業、病気、障害があげられる。ただし、人口の何%かは該当するわけで、社会的に、希望と幸せの好循環を準備することは可能である。
 逆に、偶発的生活困難の主要な原因を特定の個人の意欲や能力、行動上の欠陥に求め、社会の責任を想定しないような場合、また、財政効率を優先するような場合には、サービス提供は半端なものとなり、サービス利用者を混乱させる(例えば、生活保護の自立支援プログラム、介護保険、障害者の自立支援など)。
 とくに今日の大きな社会的リスクともなっている子育てと介護への社会的支援策を充実させる必要がある。子育てについては、両親ともにワークライフバランスの取れる働き方の確立、短時間正社員とそれに見合う社会保障制度の推進、子育て力の不十分な親への社会的支援、児童手当の増額、市民参画による多世代型の地域子育て支援システムづくりが急務である。介護については、介護労働の職業としての確立、キャリア支援システムの整備によるサービスの質の確保、介護者支援、市民参画による介護保険を中心とした地域介護のシステムづくり、改正介護保険と障害者自立支援法の利用者への影響の把握である。

3.社会保障を支える自治とコミュニティの形成

 生活保護基準の引き下げの契機に、国民年金(基礎年金)の給付水準との不均衡が引き合いに出されるという対立構造を生み出すなかで、水準は低きに引きずられている。社会保障は社会連帯を弱めたり、壊したりすることもできる。しかしながら、それでは制度の持続的発展はない。中央政府は、グローバル社会における社会的排除を克服するビジョンを持つべきである。中央政府は、国民に「負担」と「痛み」を求め、しかし、痛みの内容を丁寧に知ろうとしない。その姿勢ともつながり、かつより大きな問題は、社会保障制度の「改革」を通じて、人間社会を持続させるために必要な人々のパワーをダウンさせ、結束や連帯を破壊していることである。貧困や社会的排除の実態を全国で把握し、克服する政策を立案し実施することを政府と非営利組織の協働で行うことが、安心・安全の生活と社会づくりに有効であろう。
 そして社会サービス(現物・サービス給付)は自治体政府の責任で、地域社会の再構成として行う必要がある。地域生活を支援する現物(サービス)給付の場合、自治的に管理運営することにより共感と信頼、連帯、共同生活を育む地域社会が形成されるであろう。またそのような地域社会に関わることで、人々は社会への関心を育むことになり、社会保障を支える基盤づくりをすることになる。
社会保障制度は、支えあいの社会づくりと表裏一体であることを忘れてはならない。

4.共感の臨床サービスへ

 公共サービス労働者は、現代人の抱える不安や生活困難・社会的排除に真剣に向き合い、市民と協働して課題を解決する。上記1、2、3のテーマは、関連労働者の課題であり、公共サービス労働者は実現する担い手集団である。
 現代人の抱える問題の基底にはグローバル経済の構造、社会構造があることを確認しつつ、不安や生活困難・社会的排除に陥っている人々と共感する臨床サービス(市民とじかに向き合う)へと公共サービスの質の転換を図る必要がある。
 排除の社会的次元としては、社会サービスへのアクセス(医療・教育・交通・保育・上下水道・ごみ処理など)、労働市場へのアクセス(不安定さの問題)、社会参加の度合いが上げられる。それを担える労働者の養成、当事者や市民との協働、経験を交流し推進する機構、分権自治の確立、それらを保障する法的整備などについての取り組みが労働組合の課題である。

5.参画保障による希望の社会保障

 生活困難を抱えてしまって、あるいは、これは困ることになりそうだなと感じたときに希望がもてる状況の条件は参画保障である。参画保障のためには、一つは、自分の生活に関わることやまちづくりの決定プロセスにおいて、身近に気軽に、自分の感じていることや意見を言えて、それが聴いてもらえることである。すなわち、存在が受け止められることである。二つは、問題の確定、課題の設定、課題の解決に本人が関わることである。
 しかしながら、地域社会での人々の関わりは希薄である。地域社会は、共同体の崩壊とともに、共同なるもの(自己の利益と他者の利益の関わりの把握、共にする作業、人間社会を持続するためにはいたわりあい、慰めあい、勇気を持つことの必要性を伝達するなど)も喪失している。経済の高度成長期における人口移動により膨れ上がった都市では、市民が知り合い、地域に根ざし、共同生活を作り上げていくことが急務である。そのためには2つの仕掛けが必要である。
 人は多様な欲求を持つ。これらの欲求がぶつかり合い、コントロールされ、ルールとなるプロセスをなるべくたくさんの様々な市民が適切な規模の地域で対話とコミュニケーションを図る中でつくってゆくこと、それを支えるシステム(学習、地域交流、地域支援機能をはたす、誰でも駆け込める地域社会の入り口でもある場)が不可欠である。自分たちのまちのことは自分たちで決め、担う、市民活動団体・NPOに所属し、活動する市民をふやすことである。質の良い社会サービスが有効に提供され、使用される土台は、まちに関心を持つ市民の数と活動である。
 もう一つは、社会サービスを使用する当事者、市民の「計画」や「政策決定過程」への参画である。生活困難・社会的排除の当事者の参画はまれである。生活総体への対応を図る政策や、地域の助け合い・支えあいをすすめるには、「地域福祉計画」の策定は大きなきっかけとなる。社会福祉法で義務化されているわけではないので、まだ、策定している自治体は少ないが、実質的な市民参加が求められている。生活困難・社会的排除についての地域の状況を行政・市民が知るきっかけになり、縦割りの行政を横につなぐ必然性も明らかになる。策定のプロセスが何より重視されているところが特徴である。ただし、そのために、行政職員にはコーディネート機能が求められる。

提言5 公共サービスを支える市民社会 ――市民社会を強くする方法

提 言

  1. 国政レベルにおいても、自治体レベルにおいても、討議と合意形成を重視する討議民主主義を発展させ、定着させることが重要である。とりわけ、自治体(政府と議会)レベルにおいて市民参加の仕組みをより多様に試み、市民自治をひろげていくことが肝要である。市民参加は、地域における市民活動が活発であることにより支えられる。
  2. 市民社会を強くすることにより、公共サービスの多様な担い手を形成し、ニーズの把握、サービスの質を充実させることが可能になる。市民のニーズ把握のために、市民・市民活動・NPOからの「政策提案制度」を、自治体政府および自治体議会に作る。
  3. 市民社会を強くするためには、市民社会自らによる市民活動の促進政策が展開される必要がある。その柱は、市民活動を支援する市民活動である「市民シンクタンク」・「市民活動ネットワーク」の発展と、市民が市民に資金を提供する「市民基金」の形成である。後者との関係で、寄付文化の形成とともに、「公益・非営利活動を促進するための税制(個人・企業の寄付金控除など)」の整備が必要である。
  4. 市民社会を強化するために、「市民社会の社会運動」である労働組合の果たすべき役割の第1は、職場において正規社員、非正規社員を問わず、「同じ仕事は同じ時間給」「社会保障における均等待遇」という公正な労働基準を確立することであり、企業の社会的責任についてチェックを行うことである。
  5. 労働組合の果たすべき役割の第2は、地域における共通の課題に対して、市民活動・NPO、企業、自治体などと協力して取り組むことである。なお、この一つの例として、労働組合(連合)と労働者自主福祉事業団体(労金、全労済、労福協)が、市民活動のネットワークと協力して、地域において市民社会組織のネットワークを形成し、地域の問題解決のために、市民に対して総合的な相談窓口(ワンストップサービス)を持つ地域センター(ライフサポートセンター)を設立する動きがある。

提言の趣旨

1. 公共サービスを支えるために、なぜ市民社会が重要なのか

 公共サービスは、現在すでに、福祉、環境・食の安全、子育て・教育、男女共同参画、都市文化、国際協力の分野において、多様な担い手による公共政策によって提供されている。この公共政策の要は、国と自治体の政府による政府政策によって行なわれるサービスである。政府の役割は、公共政策の中核となるセーフティネットを整備し、サービスの質の確保のための基準づくりを行うことである。
 政府政策の基本は、市民の自立支援のためのサービスを行うことである。個人と政府との関係については、「開かれた補完性の原理」から考えることができる。個人が自立して解決できる問題は個人(自助)が解決し、家族や友人から支えられる。市民同士が共通に直面している課題については協力して市民活動により「社会的自助(共助)」で解決する。さらに、市場によるサービスの提供がおこなわれる。それに対して、市民活動で十分に解決できない問題や、市場によっては効率性から安定的に供給できないサービス、政府政策によってより効率的に解決できる問題は、自治体や政府が責任を持って、サービス供給・サポートの仕組みを作る。このようなメカニズムによって政府政策は常に再編される必要がある。
 これからの公共サービスを考える場合、以下で述べるように、ニーズ把握の面、公共サービスの担い手の面、サービスの質の面いずれにおいても、市民社会が強くなるかどうかが、肝要であると考える。
 1990年代以後、地域において直面している問題解決を自らおこなう市民活動やNPO活動が盛んになり、注目を浴びている。さらに、市民活動団体やNPO法人を中核とし、労働組合、消費生活協同組合、ワーカーズ・コレクティブ(生産やサービスを提供する協同組合)などを含めて、広く市民の自発的な組織や活動の全体を示す用語として市民社会という言葉も使われるようになっている。
 市民活動や市民社会が注目される契機になったものとして、・1998年の特定非営利活動促進法(NPO法)の成立によりNPO法人制度が急速に普及していること(NPO法人は、すでに2006年7月末で27000団体を超えている)、・社会保障の新たな制度として介護保険法が実施され、サービスの供給主体としてNPOや事業者が位置づけられたこと、・指定管理者制度の導入により、公的施設の管理の主体としてNPO法人等が位置づけられたことなどがあげられる。
 このような動きの中で、「市民と行政の協働」や協働事業の議論や試みが盛んである。協働は参加の一手法であり、市民自治への一段階であるが、まだ多くの問題点を抱えている。一方で、市民との協力で行政は地域のニーズに沿った事業がおこなえるという見方があるが、他方で、財政緊迫のなかで、安上がり行政のためのNPOの行政による下請け化がすすんでいる、NPOは行政に引きずられて自らの目標を見失う場合がある、という批判がある。
 さて、市民活動が注目されるのは、どのような理由からであろうか。第1に、サービス化・情報化の進展による複合的な都市型社会において、従来の政府が、地域における市民のニーズを探り当てることができなくなっているからである。この点では、中央省庁の疲弊といわれるように、その政策能力が衰退し、市民に身近な自治体政府がよりその政策能力を高めつつある。しかし、自治体政府も、生活者としての市民のニーズを捉えるには、不十分である。むしろ、高齢者介護(例、配食サービス、移動サービス)、障碍者の問題(例、バリアーフリー、ユニバーサルデザインのまちづくり)、子育て・子どもの問題(例、虐待に関する電話相談、育児サポート)、男女共同参画等、市民活動によってニーズ把握が始まっている。市民活動によって、地域のニーズが探り当てられ、選択され、政策として具体化されているのである。このプロセスを経て、政府の政策も再編が必要となる。
 第2に、地域の問題解決をおこなうためには、政府・行政や専門家のみならず、NPOなど地域の多様な担い手が、サービス供給に携わることが必要であり、それにより質的にもより高いサービスを有効に供給することが可能になるからである。もちろん、「ボランティアの失敗」といわれる問題もある。このように、市民活動には、市民感覚を持った「日常生活の専門家」として役割を果たし、政治社会の「批判的革新能力」を持つという特質がある。しかし、専門家によるNPOがある一方、必ずしも専門的能力を有する団体ばかりではない。そのため、十分にサービスを供給できない場合も生じる。この点は、次節で述べる「市民活動を支援する」市民活動を充実させることが重要になっている。
 第3に、政府の活動は「公平性」を実現するものであり、市場の活動は財やサービスを「効率的に分配」するものであると議論されてきた。これに対して、市民社会は、「連帯、共感、信頼」を特性としている。複合的な都市型社会において、コミュニティの衰退が言われるように、家族の多様化、雇用の多様化により、都市部における単身所帯の増加に見られるように、ますます個人化の傾向が進展している。この点からも、市民活動は、個人や家族を支えるために、不可欠なものになっている。

2.市民社会を強くする方法

 地域において急速に市民活動やNPOが増加しているものの、市民活動がさらに発展するためには、市民社会の強化が必要である。その場合、すでに述べた理由から、行政による市民活動の指導・育成はできないことを認識して、市民自らによる市民活動促進が重要である。
市民社会を強くする方法として、3つの戦略が考えられる。
 第1の戦略は、国政レベルにおいても、自治体レベルにおいても、討議と合意形成を重視する「討議民主主義」(討論を尽くして合意形成を行うという意味で熟議という用語も使われている)を発展させ、定着させることである。ここでは、自治体レベルにおける討議民主主義の発展について述べよう。自治体改革を一層進めることにより、地域において討議と合意形成を重視する討議民主主義を展開していくことが、肝要である。これは、財政緊迫と「不安社会」の状況下において、地域に不可欠な重点政策を市民が自ら決定するシステムをつくるという戦略である。より具体的には、自治体への参加の仕組みをさらに、創出していくことである。
国と自治体の関係を「上下・主従関係」から「対等・協力関係」にかえる第1次分権改革(2000年地方分権一括法の実施)後、第2次分権改革の課題として、自治体への税財源の委譲、住民自治、自治体改革が挙げられている。活発な市民活動を基礎にして、自治体への参加の仕組みをより充実させることが重要である。これまで、自治体の長の主導による行政への参加は、公募市民による「ゼロからの基本構想づくり」など多様に試みられてきた。さらに、自治体議会における参加の仕組みづくりも動き出している。これは、議会が主導で「議会基本条例」や「自治体基本条例」を作る動きであり、この場合、議会に公募市民を含む審議会を設置する例も出てきている。議会主導の市民参加が進むことにより、議会での政策議論はより活発になり、議会が生まれた理由である税金の使い道(予算)の決定が、市民合意を基礎にして行われる。
 市民によるニーズ把握を政策づくりに生かすために、自治体において市民からの「政策提案制度」を作ることが重要である。この場合、自治体政府のみならず、議会改革を進めることにより、自治体議会に市民からの「政策提案制度」を作ることも可能になる。自治体政府と議会が、参加と合意形成を重視する開かれたものになり、地域の重要な制度である学校などが地域に開かれたものになることにより、市民活動は一層発展するであろう。自治体を「民主主義の学校」として位置づけ、実践していくことが、市民活動をより活発にし、市民文化を形成する方法である。
 第2の戦略は、市民活動の自立をめざして、市民社会が自ら市民活動が活発になるための基盤整備をおこなうことである。市民活動・NPOの類型として次の4類型がある。・子育てサークル等の「相互扶助・社会的自助型」市民活動。これは、自己決定と自己実現を果たすエンパワーメント(力を高める)の活動である。・介護・配食サービス、移動サービス等サービスを提供する「市民事業型」市民活動。・「政策提言型」市民活動。これは、大きく2つのタイプがあり、地域の政策課題や市民活動についての調査を行い、政策提言をおこなう「市民シンクタンク型」と、市民活動団体に対して情報提供・経営ノウハウの支援を行い、市民組織をネットワークする「ネットワーク型」がある。・市民の持っている資金を循環させる仕組みを作り、市民事業型の市民活動団体などに資金提供を行う「市民資金・市民基金型」市民活動である。
 市民活動の中で、市民事業型市民活動をより充実させることが、地域における市民ニーズの把握、選択において、公共サービスの供給において重要である。それを支える二つの柱は、・市民活動を支援する市民シンクタンク・市民活動ネットワークの形成と、・市民基金の形成である。市民シンクタンクを形成する基礎になるのは、市民事業型の市民活動を発展させ、事業ノウハウ・経営ノウハウを蓄積していくことである。市民基金の形成には、寄付文化の醸成が不可欠であり、そのために、NPO、労働組合、企業など地域の多様な担い手の協力によるアイデアに富んだキャンペーンが試みられる必要がある。現在、公益法人制度改革(従来の社団法人・財団法人から非営利法人制度へ)がすすんでいるが、NPO法人を含む「公益・非営利活動を促進するための税制」(個人や企業の寄付金控除など)の整備という課題がある。
 さて、市民社会を強化するための第3の戦略は、「市民社会の社会運動」である労働組合が次のような2つの役割を担うことである。第1に、職場において正規社員、非正規社員を問わず、「同じ仕事は同じ時間給」「社会保障における均等待遇」という公正な労働基準の確立に寄与することであり、企業の社会的責任についてチェックをする役割である。なお、NPO活動や有償ボランティアや地域における非営利の市民事業における「コミュニティ・ワーク」は雇用労働とはみられないとしても、「その有償部分に対する法人税の課税問題」、「有償部分が対価であるのか、一部未払いの寄付を含むと見なすべきなのか」などの問題が議論されている。これは、雇用労働、コミュニティ・ワーク、家事労働という一連の労働をどのように位置づけるのかという問題が生じているからである。
 第2に、高齢者介護、子育て・教育、男女共同参画、バリアーフリー、地球温暖化防止など地域における共通の課題に対して、労働組合が、市民活動・NPO、企業、自治体などと協力して取り組むことである。この例として、労働組合(連合)と労働者自主福祉事業団体(全国労働金庫、全国労働者共済生活協同組合、労働者福祉中央協議会)が市民活動のネットワークと協力して、地域において市民社会組織のネットワークを形成し、市民の問題解決のために総合的な相談窓口を持つ「地域センター(ライフサポートセンター)」を設立する動きがある。

提言6 「良い社会」をつくる
    公共サービスの提供主体

提 言

  1. 公共サービス供給主体は中央政府・自治体政府、市民社会など多様である。これら多様な主体を担い手とする公共政策の中軸は中央政府・自治体政府による政府サービスである。中央政府と自治体政府の関係はこれまで「役割り分担」とされてきたが、これを「責任の体系」として再構築する必要がある。
  2. 現金給付から現物(サービス)給付への転換は現実のものとなりつつあるが、現物(サービス)の給付は自治体政府の責任において行われることを原則とする。
  3. 中央政府は、国民全般の生活保障と持続的な社会サービスの供給に責任をもつとともに、自治体政府の責任に属する領域への立法・行政的関与は厳に慎み、自治体政府によって供給される現物サービスの財源を保障しなければならない。
  4. 自治体政府は、その責任を果たすために組織と政策の見直しを行い、主権者住民のみならずサービス利用者、専門家などの参加するサービス内容を討議し合意する「自治」の場を設ける。

提言の趣旨

1.提供主体間の「責任の体系」

 政府は人びとの共同による生活維持の失敗をカバーすることを使命として成立している。人びとの生活は、家族や地域コミュニティの協力・共同に支えられて営まれてきた。しかし、産業社会への道を歩み始めるとともに、労働の提供によって成り立っていた家族・コミュニティ共同作業が衰退し、相互扶助に時間を割くこともままならなくなって、住民はそれら協力・共同の事務を代わって行う自治体政府を設立した。従って、自治体政府は本来的に家族・コミュニティの担ってきた機能を公共的に提供する責任を有するのである。これが、自治体政府存立の原点である。
 2000年の地方分権一括法では、自治体政府運営の規範原理として従来の「地方自治の本旨」に、「国と地方の適正な役割分担」という規準を追加した。だが、この役割分担には国の役割だけが明記され、地方の役割はいわば「それ以外のものすべて」と包括授権された。そして、「住民に身近な行政はできる限り地方公共団体にゆだねることを基本」にするとしている。ここに明らかなことは、自治体政府が処理すべき事務は国の法律で決めるといっているのであり、自治体政府がその住民に対してどのような責任を有しているかは問わない構造になっている。
 このような仕組みでは、人びとの「不安」や「苦難」にどの政府が責任をもって対処するのか不明であり、国会の都合でときに自治体政府にときに中央政府に対処すべき部署が設定される。これでは、どの政府に参加して公共サービスの実現を働きかけるべきか、国民はとまどってしまうであろう。

2.自治体政府の責任による現物(サービス)給付

 先にのべたように、自治体政府はもともと家族や地域コミュニティが共同体として維持してきた諸機能を代替的に供給する責任を有する。それらは教育・医療・福祉などの分野のいわゆる現物(サービス)給付である。まずもって、自治体政府はこの分野に対する責任をもっていることを明らかにすべきである。
 これらが、自治体政府の責任に属する理由は、第1に、すでにのべた自治体政府誕生の経緯にある。まさにそのような使命をもって設立されたからである。第2の理由は、グローバリズムにともない、中央政府が国境を管理する政府としての機能を低下させ資本流出を制御できず、また社会と生活の変化に伴い発現するリスクが多様化するなどにより、現金給付のみによる社会保障が限界にきていることである。
 現物(サービス)給付は、つねに政府サービスとして供給されることが求められているわけではない。それは、そもそも人びとの協力と相互扶助によっていたものだから、市民社会の協力・共同によって供給する団体等には返還可能である。返還された供給事業を、市民社会は無償のボランティアで行う場合もあり、福祉や医療の協同組合が担う場合もある。NPOが供給する場合には、サービスの購入を政府がおこなうなどの「役割分担」がありうる。このような調整をよりよくするのが中央政府ではなく自治体政府であることは当然である。

3.中央政府の責任によるサービス供給の持続性と財源保障

 自治体政府の責任に対して中央政府はどのような位置にあるべきかを検討する。第1は、中央政府の責任領域を明確にし、それを実行することである。ちなみに地方自治法には「全国的に統一して定めることが望ましい国民の諸活動若しくは地方自治に関する基本的な準則に関する事務」(2条・)をその一つに掲げている。そのような国民の諸活動にともなって直面するリスクを社会的に支える仕組みがなければなるまい。これを整えることが中央政府の基本的な責任である。第2に、自治体政府の政策に介入しないことが必要である。たとえば、国民健康保険は自治体の自治事務である。2000年の法改正で、健康保険料滞納者には保険証に代えて資格証明書を発行することとした。資格証明書で受診するには窓口で全額支払うことが必要で、のちに7割相当額が市町村から支払われるというものだ。収納率を上げて負担の公平を実現するためとはいうが、実際には受診を控えるケースが増えているとの報告がある。このような、自治体政府の責任領域に、法律改正によって土足で上がり込むようなことが許されること自体が問題である。「法律又はこれに基づく政令により地方公共団体が処理することとされる事務が自治事務である場合においては、国は、地方公共団体が地域の特性に応じて当該事務を処理することができるよう特に配慮しなければならない」(地自法2条・)との規定を、国会自らが死文化させている現状がある。
 中央政府は、自治体政府が責任を十分に果たし得るように、財源を保障する責任を有する。もともと自治体政府の責任は共同体に代わってサービスを供給するのであるから、住民は税を納めてその共同意思の実現を求める。したがって自治体政府には課税権がある。住民は同時に都道府県税、国税も納付しているがそれはまさに「補完性の原理」を実現する代償といってよい。住民はそれら諸段階の税を負担することで、総合して安心できる暮らしと自己実現を支える政府を維持している。地方税で足らざるところを手当てするのは、国税をあずかる中央政府の責任である。

4.「自治」の場の保障

 長らく日本の自治体政府は国の委任事務を処理する側面が強く、自治体政府は住民の信託を基礎とする成り立ちを忘れて中央政府への追従を自ら選択してきた側面がある。それをシステム化していたのが機関委任事務制度であった。2000年地方分権改革によって、機関委任事務制度は廃止されたが、自治体政府が住民によって設立されたものであり住民の暮らしを支える使命を負っているとの認識はまだ薄い。
 たとえば、先に掲げた国民健康保険資格証明書の発行についても、自治体政府が資格証明書発行の効果や社会的影響などを真剣に検討した形跡もなく、同調している実態がある。この措置によって受診控えが進み、それが原因で死亡者がでているとの報道もある。自治体政府がまずもって地域で、住民の顔を思い浮かべながら政策を選択していくこと、これが十分に実現されることが必要である。
 社会の変化に伴って、これまでのように「標準世帯」を指標として政策を遂行することでは良い社会の運営は不可能になった。単身世帯や夫婦のみ世帯の増加、とりわけ高齢世帯における増加はこれまで予想し得ない生活上のリスクを生んでいる。そしてこれらリスクの多様化は家族構成など属人的な要因によってだけでなく、共同性の濃淡など地域的な要因によっても起きる。このため、それへの対処は自治体政府でなければ不可能である。そのような位置にある自治体政府には、生活上の困難や課題に直面している当事者、主権者住民、専門家たちの参加を得て、サービス内容や提供主体、経費負担などを討議し合意していく「自治」の場の保障が求められている。

提言7 公共サービスをめぐる透明性の向上と参加のシステム化

提 言

  1. 公共サービスは住民の共同意思によりその種類と内容が決定される。この決定はとりもなおさず民主主義の実践である。地域での決定がよりよくなされるためには、十分に情報が共有されていなければならない。
  2. 供給された公共サービスが、住民の真に欲するものであったか、それに要した費用は説明可能な合理性を有していたかなど、政策の有効度を評価する仕組みが政府内部に必要である。
  3. サービス評価は、その利用者たちによっても行われることが重要である。サービスの内容に関する満足度はもとより、提供者との関係や自己負担額に見合っているかなどを汲み上げる仕組みを整備しなければならない。
  4. 公共サービスはひとり政府部門だけでなく、サービスに携わる人々の間に、活動に参加することによって得られる意義が共有されて、はじめて安定的に供給されうる。主権者住民のみならず、サービスの利用者および提供者などの参加を保障しなければならない。

提言の趣旨

1.情報の共有

 情報の共有は民主主義の原則である。地域での生活において、どのような種類のサービスがどのような内容で供給されるべきかを決定するのは住民の共同意思にほかならない。この決定が政府によって一方的になされるならば、そのサービスは人々の手助けにならないばかりか無為に浪費されることもありうる。決定への参加を有意義なものにするために、政府情報の公開・提供が欠かせない。この情報のなかには、公共サービスの提供に従事する団体、事業者およびサービス利用者からの苦情や提案も含まれる。

2.政策の有効度を評価する仕組み

 行政評価システムの導入が進んでいる。だが、公共サービスを評価する方法についての開発は遅れている現状がある。とりわけ、「サービスの質」の評価について研究開発を急ぐ必要がある。サービスの受け手の満足度だけでなく、それに要した費用が説明可能な合理性を有しているか、他に選択肢はなかったかなどについて、毎年度評価する仕組みが欠かせない。その際、監査委員による監査や外部監査などとの連携を図ることも忘れてはならない。

3.サービス利用者による評価の仕組み

 いうまでもなく、政策の評価は政府部内のみで行われるだけでは不十分である。制度としての外部監査を活用することはもちろん、主権者住民やサービス利用者あるいは利用者の家族などの評価も考慮する必要がある。ときには、これらの人々の間で評価が分かれることがあり得る。これらを調整するための評価会議のようなものを設置することも一案である。公共サービスの評価を専らとするNPOが存在すれば、それとの提携も有効であろう。

4.サービス利用者・提供者の参加

公共サービスが有効性を高めるためには、人々の参加が最も重要である。決定への参加、サービス提供への参加、そして評価への参加である。高齢者へのケアを通じて地域社会のなかでの連帯を取り戻していくことに意義を発見する人々がいる。どのようなサービスが公共的に供給されるべきか、それはどのような内容をもって、誰を対象に供給されるべきかを合意していく場への参加も重要である。徹底的な討議を通じて公共のあり方が合意されていくことにも「良い社会」の一面がある。

提言8 価格偏重を改め、公共サービスの質の重視を
    ――民間委託・市場化テスト等への対応

提 言

  1. 民間委託や市場化テスト、PFIなどで公共サービス提供者を決定する際には、価格偏重の評価基準を改め、提供される公共サービスの質を重視すること。さらに、公共サービスの質に加えて、障碍者雇用への取り組み、社会的弱者や環境への配慮、男女平等参画、公正労働基準の確立といった社会的価値についても評価できるよう、「総合評価方式」によること。
  2. 市場化テストの結果として民間委託をおこなう場合には、公共サービスの供給者である民間事業者がそこで働く人々に人間らしい生活を営める賃金(リビング・ウェイジ)を保障するために、低入札価格調査制度や最低制限価格制度などを十分に機能させるようにすること。
  3. ・から・を実現するために、各自治体にあっては、公共サービスの需要者および供給者の立場から公共調達の改革を進めることを基本条例として宣言する公契約条例を制定すること。
  4. 官民競争入札の結果、民間委託化されることによって転籍する地方公務員の処遇について、法令により、その権利を保障すること。転籍した地方公務員と民間事業者に当初あるいは新規に雇用される従業者との間で、二層賃金問題を引き起こさないようにすること。

提言の趣旨

1.価格偏重を改め、公共サービスの質を重視すること

これまで、わが国では、公共サービスの民間委託に始まり、PFI(Private Finance Initiative)など、公共サービスの供給者を官から民へと変えていく試みがすすめられてきており、さらに、今般成立した競争の導入による公共サービスの改革に関する法律(以下、「市場化テスト法」)により、国、自治体とも市場化テストの導入の検討がすすめられようとしている。
これまでPFIや民間委託、市場化テストに取り組んできた欧米諸国では、公務員数の削減とコストの縮減が、導入した「効果」として、政府から指摘されている。しかし、一方で、経費節減効果に疑問を提示する見方もある。すなわち、市場化テスト導入による公共部門の経費削減は、職員賃金の引き下げや解雇によることが大きな要因でもあるとして、これらは、将来、失業手当の増加、所得税の減少などによって、新たな財政難の原因を作っているというものである。すなわち、短期的な経費削減効果は、中長期的には相殺されてしまうと言う。市場化テスト導入の検討に当たっては、短期的なコスト削減にばかりとらわれてしまうことなく、中長期的な社会的影響を考慮しなければならない。財政問題もさることながら、さらに欧米の事例を見れば、民間委託や市場化テストにおける議論では、公共サービスの質の劣化に対する懸念が必ず浮上している。
こうした点を踏まえ、今後の公共サービスのあり方や民間委託等アウトソーシングにおける公共サービスの質とコストの関係について考え方を整理しておく必要がある。これまでの整理で言えば、公共サービスの提供者を決定するプロセスは、公共サービスの質を一定水準維持しつつ、あるいは向上させつつ、最も低い価格を提示した主体を落札者として選択するという価格評価である。一方、公共サービスの質の評価は、その特定と測定がむずかしいため敬遠されがちであった。また、公共部門のスリム化を至上命題にした改革がすすめられようとする中では、価格に偏重した落札者決定をおこなってしまいがちである。市場化テストを既に導入している欧州各国では、こうした価格偏重のアプローチが公共サービスの質を劣化させる可能性があるとの認識から、質を重視した落札者選定の方法を模索し始めている。サッチャー・メージャー保守党政権による地方公共サービスへの市場化テスト導入が20年間におよんだイギリスでは、ブレア労働党政権による同制度廃止の理由として、「コスト削減重視が公共サービスの質の軽視へと反転してしまったこと」を挙げている。そして、ブレア労働党政権が当初から掲げている改革のアジェンダは、「公共サービスの高品質化」である。 
また、今般の市場化テストのフレームにおいて、価格偏重の入札評価をしていけば、地方公共サービスの需要者である住民、および供給者である民間事業者・公務員のいずれにも、負の影響があることを理解しなければならない。
 まず、公共サービスの需要者である住民に対しては、公共サービスの質の劣化という形で現れることになる。公共サービスの仕様を満たす資格があることを前提に価格競争に陥れば、競争に参加する民間企業等や自治体担当部門は、公共サービスの質の向上よりも、いかにして、資源投入を削減していくかに関心が移ってしまう。さらに、公共サービスの質に対する意識が希薄なままでは、官民いずれが公共サービスの提供者になっても、当該サービスの提供中に監視機能が働かなくなる。公共サービスの提供者が向けるべき関心は、住民に向けたサービスである限り、その質の向上であり、さらに地域における公共サービスである限り、障碍者雇用、社会的弱者や環境への配慮、男女平等参画といった社会的価値の実現でなければならない。こうした視点を入札評価の基準に持つ必要がある。

2.人間らしい生活を営める賃金保障を

 一方、公共サービスの供給者である官民の労働者の視点から価格重視の入札評価を見れば、市場化テストの帰結として民間委託された場合、民間事業者の低賃金という問題となって現れることになる。人間らしい生活を営める賃金、すなわち、生活賃金(リビング・ウェイジ)の保障なきところに、質の安定した公共サービスの提供は望めない。こうした状況を防ぐために、現行法令では、低入札価格調査制度や最低制限価格制度の規定が存在することは確かだが、自治体に対するこれまでの判例を見る限り、当該制度が十分に機能しているとは言いがたい。地域における賃金の公正性からも、これらの制度が効力を十分に発揮できることを保障する必要がある。

3.公契約条例の制定が急がれるべき

 以上、公共サービスの需要者および提供者の視点の双方から見て、地域における社会的価値の実現を最優先にして公共サービスの質の向上を図った上での価格の削減でなければならない。そして、価格評価から、こうした社会的価値を入札評価の基準として盛り込んだ総合評価方式への移行が求められるのである。市場化テスト法では、「公共サービスの質の維持向上及び経費の削減を図る改革(第1条)」と質か価格の両者を重視する改革であることを宣言し、かつ、その改革は、「公共サービスによる利益を享受する国民の立場に立って(第3条)」進められるべきものとしている。市場化テスト法の趣旨に則り、自治体への市場化テスト導入を考えれば、環境や福祉、男女平等参画、さらに、不当労働行為の企業の排除や労働基準法などの法令遵守を求める公正労働基準の確立といった社会的価値を実現することが公共サービス改革の前提になる。その上で、公共サービスの質を向上させ、コストを削減していく改革を進めていくべきである。自治体が、その役割を認識し、社会的価値が確実に実現されていく公共サービス改革にするためには、自治体契約における入札方法を通じても、自治体の責任だけではなく、事業者の責務を明記し、社会的価値の実現を追求することを宣言する基本条例として、公契約条例の制定が求められるところである。

4.「二層賃金問題」を回避すること

 さらに、市場化テスト法では、落札した民間企業等に転籍を希望する国家公務員の処遇について、退職金等で不利のないようにしているが、地方公務員にあっても、同様の措置を条例などで保障すべきである。
 また、転籍を希望し民間事業者等から受け入れられる公務員について、欧州では、当該公務員の権利を擁護する法令が30年前から整備されてきている。これによって、公務員の権利が保障されるようになってきたことは特記されるべきだが、一方で、公共サービスを提供する民間事業者内部において、移籍した公務員と、当該事業者に当初あるいは新規に雇用される従業者との間で、同じ公共サービス提供に携わりながらも賃金格差が生じる「二層賃金問題」である。こうした二層賃金問題を、わが国で引き起こしてはならない。価格競争が激化していく現状の中で格差は広がり、公共サービスの提供者となる民間事業者の賃金は、社会的に見て公正な水準を下回る例も多く見られるようになった。こうした官民の賃金格差是正に対する改善の動きは遅々としていたが、2002年には、ロンドン市と委託契約を締結する民間事業者には、公共部門と同等水準の賃金支払が義務づけられるようになった。翌2003年になると、イングランド全域の自治体と委託契約を締結する民間事業者に、官民格差のない公平な賃金を保障する「実施基準」が政府から公表されている。こうした先進事例を参考に、公務労働者と民間労働者との権利の保障を同一にしていくことで、雇用は安定し、労働者の士気も上がり、公共サービスの高品質化も保障されていくと考えるべきである。

 

提言9   公共サービスに携わる人々にディーセントワークを

提 言

  1. 良い公共サービスが提供されるためには、公共サービスに携わる従事者にとって人間性が尊重された仕事(ディーセントワーク)が確保される必要がある。ディーセントな仕事はより良き労働条件を約束するだけではなく、職業倫理と士気を高め、ディーセントは(人間らしく寛容な)サービスを市民に提供する。
  2. 対人社会サービスを中心とする現物給付への急速な需要増が見込まれるのに対して、それを支えるべき数と訓練を受けたヒューマンパワーの整備は立ち後れており、ケアとヘルス部門を重点として人材養成が図られるべきである。
  3. 市民によって公共サービスのニーズが表出され、ニーズ充足のサービスプランへの参加がつよまっていくにつれ、公共サービス従事者、とくに公務員の仕事のあり方も見直されることになる。直接的なサービス提供あるいは上からのプラン策定者という役割から、市民との新しいパートナーシップを基礎にした調整者、助言者としての役割が重視されるようになる。
  4. 政府サービスの民間委託・業務委託に伴った労働ダンピングの広がりを防止するために政府と民間事業者との間に締結される公契約のなかに公正労働条項が導入されるべきである。

提言の趣旨

1.ディーセントワークが良い質の公共サービスを提供する

 良い質の公共サービスが提供されるためには、それにふさわしい数の担い手たちが充足されると同時に、公正な賃金と労働条件などが保障され、同一価値労働同一賃金、技能の習得や昇進の機会が公平に与えられ、一方的な解雇等から保護され、また労働組合を通じた意思表明・発言の機会が保障されていなければならない。こうした「人間性が尊重された仕事」(ディーセントワーク)が確保されることによって、公共サービスにかんする高い職業倫理と誇りが持てるようになる。
 ディーセントワークは、もとより公共サービスだけに限られるものではなく、あらゆる仕事に共通して言えることであるが、この面でも、日本は国際的に後塵を拝している。ILOによる仕事をベースにした「保障」にかんする国際比較調査(2004年)では日本は18位の地位に甘んじている。今後、労働市場の二極化がいよいよつよまっていけば、ディーセントワークが軽視され、「保障」がさらに後退していくことが懸念される。
ここでわれわれがとくに注目すべきは、人びとの生活の豊かさや幸福の社会インフラを成すはずの公共サービスの分野で、人間性が顧みられない仕事が増え、引いては下流社会を助長する傾向が認められる点にある。
 対人社会サービスの、たとえば介護や福祉や保育の分野は、賃金が低く、社会保険加入さえも約束されず、キャリアも蓄積されない多数の不安定雇用者によって担われている現実がある。また学校現場においては、過重労働やストレスなどを理由にして退職を余儀なくされる教員の声が聞かれる。
さらに公共サービスの業務委託や民間委託の過程で、適正とは思われない価格競争がはげしさを増しているが、その背景には受託事業者の下ではたらく人びとの劣悪な労働条件が存在する。
 身分が不安で、職業倫理が持てないままに放置されれば、ひとり従事者だけではなく、公共サービスの利用者にも大きな不利益をもたらす。最近相次いでいる福祉現場における職員による利用者の人権無視のスキャンダルは、こうしたことと無関係には語れない。また「使い捨て」労働者並みの処遇は従事者の離職率の高さを招き、利用者との継続的な信頼関係を壊し、利用者のアメニティを損なう。
逆に、ディーセントワークが確保されていれば、利用者にもディーセントな(人間らしい寛容な)サービスを提供できる。

2.高まるサービス需要に応えうる従事者数の確保と養成・研修を

公共サービスに対する需要は少子高齢化や生活の外部化あるいは知識集約産業化に伴って必然的に高まっていく。これらの需要に応えていくためには、制度や施設の整備と並んで、従事者が十分に用意されることが不可欠である。
立ち遅れが目立つのはケアとヘルス部門であり、介護、看護、リハビリ、医師、保育などにかかわる人材を手厚く確保していく必要がある。
とくにケアワーカーに着目して言えば、ケアワークが専門性を有する職業の一つとしていかに社会的に認知させていくことができるかが人材確保の起点となる。そのためには、能力開発とキャリア開発支援のための基礎研修・継続研修が必須の要件である。
また現に見られる教員のパブリック・ミッションの希薄化や、OECD・PISA等各種調査で指摘されているように教員の教養と研修機会が劣化していることへの対応として、教員教育と現職研修の充実が急務であり、また先進国に習って教員教育を大学院レベルに引き上げるなどの改革が必要である。国際的に注目を浴びているフィンランドの高い教育水準の秘訣は、徹底した平等主義教育と教員の質と処遇の向上のための施策であったことを参考にすべきであろう(提言2を参照)。

3.公共サービス従事者と市民・利用者との新しいパートナーシップ

 現代においては、公共サービスは従事者が上からプランを決め、市民・利用者がそのプランに自分たちのニーズをあてはめるということではなく、市民・利用者が主体的に決定していくようになるべきである。こうしたなかで公務員の果たすべき役割も変化していかざるを得ない。直接的なサービス提供者から、あるいは上からのプラン策定者という立場から、その豊富な情報力や専門性、また市民からの信頼性を生かしつつ、市民との討議と共同作業をつうじて、公共サービスをデザインしていく助言者、調整者としての能力が重要になってくる。こうした市民と公務員の新しいパートナーシップがあってはじめて、新しいコミュニティづくりが行われるようになる。こうしたコミュニティが形成されていけば、子どもの危機が救われ、福祉の街づくりも可能となっていく。
市民と従事者とのこのような関係は、公務員以外のNPO、社会福祉法人、社会的企業などの形態で公共サービスに携わっている従事者にも求められる。

4.公契約条例の促進と公正労働基準条項の導入

 政府サービスが業務委託あるいは民間委託され、あるいはこんご官民競争入札が導入されていく過程で、公正な労働基準が遵守されず、労働ダンピング紛いが横行することが危惧される。
 公共サービスが有する「公共性」のなかには、一国の最大の使用者であり、「模範的」使用者であるべき国や地方公共団体が、その事業を委託する際には受託事業者が公正な労働基準を遵守しているかどうかの確証も含まれる。
 こうした観点に立って、ILO94号条約および同勧告を踏まえた労働条項を含んだ公契約の法制化・条文化が急がれる。すなわち国または地方公共団体の発注する公共事業等に従事する民間従事者に対して、一定水準以上の賃金・労働条件を保障することを目的にして、国や地方公共団体と受注業者との間において締結される「公契約」のなかに「労働条項」が設けられるべきである。

 

提言10 良い社会をつくるための公務労働

提 言

  1. 公務労働をめぐって三重の劣化が進行している。(1)公務の縮減と、(2)公務労働の過重化とが並進するなかで、(3)公務員のアイデンティティが揺らいでいる。(3)の劣化はさらに(1)→(2)へと波及する。こうした負の連鎖を断ち切ることが緊急の課題である。
  2. 公務の縮減に対抗して、それぞれの現場から公共領域を拡充していくことが求められる。今後の公務労働は、現場において市民のニーズを見据え市民の評価に耐えうる再編と自己改革をすすめる必要がある。
  3. 公務労働の過重化に対しては、権利を含む適性化を求め、さらに公共の仕事を担うことがそのままディーセント(穏やかで寛容な上品さ)であるような状態を築いていくように努める。
  4. アイデンティティの揺らぎに対しては、市民社会に認められるような心(スピリット)と技(スキル)にもとづいた民間と異なる公務員としてのアイデンティティをもういちど確立していく。
  5. そして、良い社会をつくるために欠かせないツールとして公務労働を位置づけ直す。そのための公務労働と公共サービスの意義を、市民と自らとに分かりやすく示して説明責任を果たす。
  6. 提言の趣旨

    1.三重の劣化の断ち切り

     公務労働をめぐって三重の劣化が進行している。三重の劣化とは、(1)公務・公共サースの範囲が縮減され、同時に(2)公務労働の過重化が進行するなかで、(3)個々の公務労働者のアイデンティティが揺らいでいることである。これらの劣化は相互に連動しており、結果として公共そのものの劣化が進んでいる。以下、順に述べよう。
     第1は周縁からの劣化である。民営化や市場化テストなど、公務労働と公共サービスの担い手を非公務化して民間に置き換える動きが加速している。政府が「官から民へ」と繰り返す場合の「民」とは、新しい公共を築くべき市民のことではなく、たかだか民間の企業や法人をさしているにすぎない。そしてNPM(新公共管理)の本質は、公共領域を縮減しようとするノン・パブリック・マネジメント(非公共管理)である。
     現に少子化対策の看板を掲げながら、ニーズの高まる公立保育所を次々と民営化している。つまりこの国では政府自身が、公務・公共サービスの縮減によって、小さな政府どころか無政府状態を推進していることになる。政府の言う構造改革とは、増税をしながら、政府が機能しないアナーキーをつくりだすことなのだろうか。国民に自己責任を説く政府は、自らの責任を極少化し続ける無責任政府でもある。
     第2は公務労働の過重による劣化である。公務の縮減という第1の劣化につれて雇用が不安定化することに加え、残余の公共サービスを担う一般職員の労働条件は低下し続けている。小泉政権下の過去5年間で3.5兆円もの人件費が削減されたと言われる。さらに職員定数の削減と業務量の増加とが重なり、個々の職員にとって長時間の重労働を余儀なくされることが多い。
     国民のなかに広がる公務員不信の気分を背景として、政府は定数削減や賃金水準の引き下げなどをおこなっている。すなわち労働基本権などの権利侵害が続くなかで、不安定雇用・低賃金・長時間・重労働が進行しているわけである。
     第3は内面的な劣化である。第1の劣化と第2の劣化に制約されて、個々の公務員のアイデンティティが揺らぎつつある。不祥事や「厚遇」へのバッシングが続いているが、公務を担うのが生身の職員である以上、こうした逆風のなかで公務員としての自信と誇りを喪失し、仕事における目標を見失いがちになっているのだ。これが職員の士気に影響しないはずはない。現にメンタルな休職者や早期退職者が増えている。
    すでに役所は、多くの一般職員にとって、働きがいを実感しにくい職場になりつつあるのではないか。自信を持てずに提供されるサービスは、的確なサービスとして受け手に伝わりにくい。行き届いた公共サービスを行うべきときには、この様相がとくに顕著になる。サービスがサービスとして伝わりにくい公務の状況のもとで、民間との競争が行われていく。このことは公務労働にとって、相当なハンディにならざるを得ない。
    危惧されるのは、三重の劣化におけるこうした悪循環である。したがって、(1) の劣化→(2)→(3)→(1)という負の連鎖を断ち切ることが緊急の課題になっている。
     これらの劣化がいずれも意図的に作られた結果であることは論を待たない。財政再建の謳い文句のもとで、公務員給与としての人件費は極力減らされ続けている。現に小泉政権は3.5兆円も「節約」した。しかし不思議なことに、他方では委託や指定管理などによって民間に支払う公費はいくらでも出てくるのである。公務員に払うカネはないが、民間に払う予算は無制限だと言わんばかりである。
     それでは、これら三重の劣化に対処するにはどうすればよいのか。

    2.公務・公共サービスの拡充

     まず(1)の劣化に対しては、縮減されつつある公務・公共サービスを拡充し再編していく自己改革の試みである。
    非公務化の過程ではNPOなどとも競争しつつ、市民の評価に耐えうる「参加と納得の公共サービス体系」を実現していかなければならない。このことは、公務労働の本質とは何か、何を公務として残すか、譲れない原点とは何かという問題と深くかかわっている。公務労働者とその組合自らが、従来の公共を見直し再編に向けた提案を積極的に行っていく必要がある。
    公的施設の管理を安易に「民間開放」すると、ユーザーの人命に関わる場合がありうる。私たちはそれを埼玉県ふじみ野市の事件で学んだ。市場化テストなどにも類似の課題がありうるはずである。こうした非公務化の動きに対しては、ILO94号条約(公契約労働)の条例化とその厳正な運用など、適切な対応が求められる。さらにその上で、公務の縮減に対抗して、それぞれの現場で公共領域を拡充し再編していくことが必要である。  今後の公務労働は、現場において市民ニーズの実態を見据えた自己改革をすすめていくべきである。広島県福山市職労は、「公務労働拡大」に取り組んでいる。これは現業活性化から発展した独自の取り組みである。そのポイントは、市民の視点に立って、必要とされる公共サービスとして提供する公務労働の領域を自ら拡大していくことである。
     たとえば学校技術員・清掃・給食・土木・一般現業職員などによる多様な共同作業として、職場や職種を越えた横の連携である。この取り組みは、市役所の機構のなかに、拡大する公務労働を総合調整する「調整担当次長制」を新設させている。しかもこれは培われたノウハウや専門性を市民の便益向上に生かすことなり、本来業務の見直しや職員のやりがいにもつながっているという。公務縮減への対抗軸としても、今後の公務労働を考える際に示唆に富む発想と活動であろう。

    3.公務労働を人間の尊厳を保てるような労働に

     つぎに(2)の劣化に対しては、公務労働を適性かつディーセントなものにしていく試みである。  公務員の「厚遇」や不祥事について、正すべきものを正すのは当然である。むしろ問題は、バッシングの合唱によって、公務労働の実態が国民に見えにくくなってしまっていることだ。このなかから、どのように「正すべきもの」を見分け、公務労働についての透明で民主的なルールを確立していけるかが問われている。
     さらに労働基本権を確立し、低賃金・長時間・重労働という公務労働の過重を適正化することが求められる。すでに兆しは見えつつあるが、公務員の過重化の次は自分たちの過重化だと気付き、先を読める理解者を民間の勤労者のなかに増やすことが必要である。現に民間の雇用労働においても、グローバル化における海外フライトや非正規雇用の増大、労働コストの切り下げとして、(1)と(2)の劣化が並進している。
     そのうえで、公務のディーセント・ワーク化を目指したい。ディーセント・ワークとは、人間としての尊厳を保てるような労働のことであるとされる。詳細は別の提言を参照していただきたいが、そのポイントは働くこと自体がディーセント(穏やかで寛容な上品さ)でなければならないという点だ。誤解されがちだけれども、ディーセントな暮らし向きを獲得し続けるために、現状のような過重な労働に耐えていくという意味ではない。
     公共の仕事を担うことがそのままディーセントであるような状態は、どのように築いていけるだろうか。しかもそれを阻む要因は、構造改革によって増大している。おそらくそれは、公共そのものをディーセントなものにしていく試みになるはずである。

    4.公務員のアイデンティティの確立

    さらに(3)の劣化に対しては、揺らぎつつある公務員のアイデンティティをもういちど確立していくことである。
     その場合に手掛かりとなるのは、日本国憲法の「全体の奉仕者」(15条)という規定であろう。この英文は “servants of the whole community" である。全体としてのコミュニティのサーバントたち、ということだ。アイデンティティの確立に向けて、この意味合いを再定義する必要がある。
     公務員のアイデンティティの核心は、心と技であると思われる。すなわち公共を支える精神としてのパブリック・スピリットと、組織的な蓄積に支えられた専門家としてのアキュムレート・スキル(蓄積された技)である。そして、この二つが市民に認知され、それにもとづいて市民からの信頼が寄せられることである。「全体の奉仕者」としてのアイデンティティとは、ひとりよがりなものではなく、市民社会的な広がりを持つべきものだからである。
    パブリック・スピリットという心、アキュムレート・スキルという技、そして市民からの信頼という社会的な認知。この3点を体現することが、「全体としてのコミュニティにサーブする人たち」の内実だろう。このことは、公務労働における安定性、継続性、信頼性と言い換えてもよい。民間と異なる公務労働の本質がコミュニティ全体へのサービスである以上、良い社会はここから立ち上がってくるはずである。

    5.市民的公共圏を求めて

     公務・公共サービスを拡充・再編し、公務労働をディーセント化し、公務員のアイデンティティを確立する。こうした試みはどのような公共イメージと親和的だろうか。恐らくそれは、市民が「公共」の内容と範囲を決める主体になる新しい公共圏(良い社会)である。それはまた、市民とそれをサポートする公務員とによる「公民ミックス」になるべきである。
     ではその際、公務労働者とその組合に求められる資質はどのようなものか。市民やユーザーの権利を守る公務労働者、そして非正規雇用者と連携し、すべての働く者の権利を守る公務労働組合である。行政の都合を優先せずに、市民やユーザーの目線に立ち、専門家市民として問題を考え解決するタイプの公務員が求められている。
     所得格差の拡大、非正規雇用の増大、家族形態の変容などに即応して、新しい公共サービスを創出・拡充することも欠かせない。NPOなどの動きに見られるように、市民活動は、切実な私的動機からスタートして社会的な連帯をつくりだしている。これらとの連携を視野に入れることも欠かせない。
     組合の活動としては、タテ割り行政のセクショナリズムを乗り越える職場研究活動と、地域生活の切実な諸課題と向き合う地域研究活動とを日常的に相乗させていく必要がある。そしてこの活動を通じて、良い社会をつくるための公務労働と公共サービスの意義を市民と自らとに分かりやすく示すことである。公務労働の姿を的確に伝えて透明度を高める説明責任が求められる。こうした地道な取り組みの先に、良い社会をつくるための公務労働という当然の認識が確立し広く普及していくはずである。

    おわりに

     今、地域社会には格差と困窮によってもたらされた様々な歪みが広がり、公共の責任が縮小するなか、思いがけない事件や事故が人々の不安をかき立てている。景気回復が言われても、大多数の国民にその実感はなく、人々の元気や幸福と乖離した経済拡大は、遠からず失速する怖れもある。 本報告書は、「もっと小さな政府」「極小の政府」路線を今こそ改めて、公共サービスの拡充を基礎に安心で有効な政府を確立することこそが、地域社会を蘇らせ、知識社会の経済を安定した軌道に乗せていく唯一の道であることを主張してきた。市民の社会参加を支え、子どもたちの考え生きる力を育むネットワークは、良質な公共サービスとともに発展していかなければならない。ごく短期的な経済効率だけを考えて、これを市場に委ねる考え方が、長期的にみればいかに社会の活力を損なうことになるかを、本報告書は明らかにしてきた。

     同時に本報告書は、公共サービスが市民のニーズをとらえていくためには、公共サービスの担い手も自らチャレンジを重ねていく必要があることも強調してきた。良質な公共サービスの供給にあたっては、利用者によるサービスの評価、サービス供給への市民の参加、市民社会のネットワークとの多様な連携などが求められている。

    さらに本報告書は、公共サービスを担うものが、公正な労働条件のもとで、ディーセントな仕事に就くことができることが重要であると主張してきた。このことは、公共サービスが市民のニーズをとらえ、また市民の評価を受けていくことと矛盾しない。それどころか、公共サービスを担う人々のディーセントな労働環境と公共サービスの質は一体不可分のものであるといってよい。利用者との豊かなコミュニケーションのもとで、そのニーズをしっかり実現しているという実感を得ることができる労働環境こそが、公共サービスの質を高めていく。

    市場経済の持続的で安定した展開のためには、良質な公共サービスの実現こそが不可欠である。不透明な特権や利益誘導と決別するという名目で、すべてが市場に委ねられ公共サービスが投げ捨てられるようになっては、逆に市場経済のスムーズな展開に支障が生じる。公共サービスの支えを欠いたむきだしの市場は、長期的に持続していくことが困難である。
    さらに、世界に誇れる日本をつくるというのであれば、公共サービスの安定的供給のもと、人々が、子どもたちが、地域社会で豊かで幸福な経験を紡ぐことができなければならない。

    日本の社会と市場経済の持続的発展に求められる公共サービスについて、その水準とあるべき姿が明確にされるべきであろう。そのためには、たとえば公共サービスの水準とあり方に関する基本法を制定していくことも考えられる。あるべき公共サービスをめぐって、広範な市民の意思を集約され、しっかりしたヴィジョンが示されることが重要になっている。執筆者一同は、本報告書がその一助となることを願ってやまない。

    なお、執筆者と担当部分を記しておけば、「『公』の破壊に抗して」神野直彦、「提言1」宮本太郎、「提言2」佐藤学、「提言3」間宮陽介、「提言4」堀越栄子、「提言5」坪郷實、「提言6」辻山幸宣、「提言7」辻山幸宣、「提言8」稲沢克祐、「提言9」小川正浩、「提言10」沼田良である。

    研究会幹事 宮 本 太 郎

     

     

    良い社会をつくる公共サービスを考える
    −財政再建主義を超え、有効に機能する「ほどよい政府」を−
    研究会報告

       発行日:2006年10月16日
       発行者:良い社会をつくる公共サービスを考える研究会
       連絡先:(社)生活経済政策研究所
           〒101-0062 東京都千代田区神田駿河台3-6 全電通労働会館
                 電話03-3253-3772 FAX03-3253-3779
           (財)地方自治総合研究所
           〒102-0085 東京都千代田区六番町2-15 自治労第2会館3階
                 電話03-3264-5924 FAX03-3230-3649
           公務公共サービス労働組合協議会
           〒101-0062 東京都千代田区神田駿河台3-2-11 総評会館
                 電話03-3251-7799 FAX03-3251-7794